映画:ブリキの太鼓/大人の醜さ/子供のままである事の醜さ

amazon ASIN-B0010B8AYQ ブリキの太鼓(1979/独=仏=ポーランド=ユーゴスラビア)を観た。ドイツの小説家ギュンター・グラスのノーベル文学賞対象作品である同名の小説の映画化であるらしい。映画化といっても小説では第一章の部分だけになるらしいのやけど。
ナチスが台頭する直前のダンツィヒ自由市で暮らす少数民族のカシュバイ人の母とドイツ人の父を持つ子供が、自宅で催されたパーティで大人の醜さを垣間見て成長を止める事を決意して階段から転げ落ちる。
三歳で成長が止まり、叫び声で物を破壊する超能力を身につけた彼はブリキの太鼓だけを友人とし、のべつ幕なしに太鼓を叩きまくり、気に入らない事があると叫んで物を壊すわがまま少年のまま年だけをとって行く。
第一次大戦前の放火犯と祖母の間に母が生まれたエピソードからポーランド人の従兄と不倫を続ける母の行動、そしてナチスのユダヤ人迫害とポーランド侵攻、それに続くソ連によるドイツへの侵攻までの長い時間をその少年の目から描いている。


公開当時のグロテスクなシーンとエロいシーンで物議を醸したらしいけど、今となればエロもグロもそれほど大した事は無い。とはいってもそのエログロは映像としては大した事無くても人間のモラリティーな部分を逆なでするような気分の悪さがある。
印象に残るシーンはとても多く、特に本編とは直接の関係が無いナチスの集会でのマーチが「美しき青きドナウ」に変わって舞踏会になるシーンが良かった。恐らく原作にはこういった良いシーンがたくさんあったのだろうと想像されるし、原作の出来の良さを感じる。
海に投げ入れた牛の首でウナギ漁をするするシーンから、従兄と不倫し続けてとうとう妊娠してしまった母親がおかしくなってニシンの缶詰や生魚を食べまくるシーンまでの一連の流れのエグさは素晴らしい。
母にとって魚とは生理的な欲望と欲望の醜さを同時に象徴する物だったのだろう。その魚をひたすら食べ続けたのは、自分の中の醜い欲望の代替品としたのか、それとも欲望に対する敗北の表現だったのか。
何れにせよこの母親の運命は中々のものだし、そんな母の醜さを見て育ってきた少年が成長を拒否してしまいたくなるのは良くわかる。
しかし成長しなくなったのではなく自ら成長を拒否したこの少年は子供の持つ特有の醜さだけが際立つ事になってしまったように思う。無邪気さを装った悪意があまりにも邪悪である。
そしてパッケージの写真のような気の触れたような目つきで太鼓を叩きながら叫ぶ少年の演技が鬼気迫って素晴らしい。この顔だけでも一見の価値ありである。
確かに少年の拒否したような欲望にまみれた大人は醜い。しかし少年のように子供のままであり続ける事も同様に醜いと思う。
大人の持つ欲望と、大人になりたくない欲望はどちらも理解出来るものであるけど、人が醜いかどうかはその欲望がどう現象するかによるだろうし、大人の醜さとこの少年の醜さは質が違うだけのように見える。
たとえ欲望自体が醜いのだとしても我々からそれが無くなる事は決して無いだろう。欲望を無くす方向性の修行が無益である事は数々の過去の偉人の言う通りなのであろうと今は思う。
劇的で神がかり的で神秘体験的で神智的な一瞬による自らの覚醒やとか変化など幻想に過ぎないのだろう。
結局自分の欲望が醜く思えてそれをゼロにする事が出来なければ、それがゼロであるかのように生活して、習慣が自らを無意識でそういうものであるかのように振舞えるようにするしかない。と言うのもまた数々の過去の偉人の言うとおりであろう。
などと、欲望とその醜さについて思いを馳せた、まぎれも無い名作の映画であった。
これはぜひ原作読まんとね。

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