ある世界での臨死

やっとのことで、生き残っていた旧世代のOSを全部入れ替えた。教室二つで作業時間は二時間半である。
我ながらなんと段取りのいい事か。と思う。
これで「特殊用途」でない通常利用の端末全ての足並みが揃った。
それに伴い、初夏の頃に、突然のひらめきと思いつきから「夏休みの宿題」として自分に課していたサーバーの構築が本日をもって終了した。
私の管轄する全てのクライアントを統べるべく開始させたサービスも、順調に動き始めている。
懸念事項の一つであったセキュリティ的な問題もこれでとても大きな進展を得た。
大きな気がかりだった事が一つ解消され、回る物と回らせるものと回り続ける所、やっと全ての環境が揃った。
地味ではあるけど、これは悲願であった。私にとっての一つの到達点である。


今まで私が介入する事で回っていた世界は、これからは私の介入無しに自立的に回り始めるだろう。
私がいなくなったこの世界が、より素晴らしい秩序を持った世界に取って代わられるまで、自己修復と自己超克と自己防衛を自立的に繰り返しながら存在し続ける可能性を持ったと思えばとても嬉しい。
あまりにもひっそりとした世界の完成は世界の終わりにとても似ている。
私がいなくなった後の世界の事を考え、そのための準備をするのは、何かしら死の準備に似ている。
わかりやすい自己存在のの意味でもって自身と世界の関わりを計り、そしてその価値を他に分け与える事で自身の存在の意味を世界から剥奪する。
私が死んだ後も世界から何も失われないように。
この世界の完成、あるいはこの世界の終わりによって、私の存在はこの世界での価値を失う。そしてそれはこの世界での私の死でもある。
今までの私が死んだ今、私はこの世界と今までとは違う関わり方で関わる事にならざるをえないだろう。それがどんな関わり方かは想像はつかないけど。
と、コンピュータを世界に例えるのはとてもたやすい。
世の中の複雑さと不条理さに比べれば、コンピューターの世界の秩序など何と理解しやすい事か。
世の中で頻繁に起こるトラブルや災難に比べれば、コンピューター世界での危機回避や問題解決が何と容易く迅速に行われる事か。
全ては原因と結果、一つの目標とそれに到達する幾つもの道が存在するだけ。全ては論理の世界である。
往々にして陥りやすいコンピューター世界での全能感の根がそこにある。
それでも、依然として、コンピューターが一つの世界である事は間違いない。と私は思う。
そしてコンピューター世界での経験を現実に活かせない人間こそ、コンピューター世界を貶めるものであると思う。
まぁ、コンピューターの世界に限った事では無いやろうけどね。

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