「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」 / 今更ながら「エヴァンゲリオン」について考えてみた

amazon ASIN-B0012V4WSM本当なら劇場で見たかったのやけど、いつの間にか観る機会を逃していた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』 (2007/日)を今更ながらに観た。
話の内容としてはアニメ版の1~6話、第5使徒ラミエルと戦うところまで。
テレビ版の総集編のような感じやったけど、製作サイドは「新世紀エヴァンゲリオン」とは別物の全く新しいものだという認識でいるらしい。
使徒の番号がずれてるとか、いきなりターミナルドグマやリリスやカヲルが出てくるとかは確かに違う。
以前はある程度シンジに感情移入して観ていたけど、さすがにこの年になるとそういった見方は出来ないし、どちらかと言うとネルフの人間の立場の見方を考えてしまう。
昔にテレビ版を見た時はとても面白かったはずなのやけど、今になってみると以前ほどの面白さはないように感じた。
シンジのうじうじ度合いを始め、その他のレイやトウジなどの子供たちはいいとしても、ミサトやリツコやゲンドウのキャラクターにとても違和感がある。
ミサトを中心にしたネルフ職員がシンジを何とか初号機に乗せようと、褒めたりなだめたり怒ったり諭したりする様が全然リアルに感じられないし、必死で使徒と戦っているようにも見えない。
シンジに戦ってもらわないとどうしようもないのに、シンジの自由意志で乗れとか言ってるし、無理やりにでも乗せようとしないのが不思議でしょうがない。
大人ってのはもっとドロドロしてて賢くて複雑なものやと思う。
シンジではなく、ネルフの人間に感情移入して見てしまうと違和感ありありであった。


ネットのどこかで「エヴァンゲリオン」は「オリジナルなき世代の、引用とコピー(リミックス)にあふれた作品」だという意見を読んだけど、確かに最近色々な古い漫画や映画やアニメを読んだり観たりするようになって、エヴァンゲリオンでのあれのオリジナルはこれやったんか。と思うことがとても多い。
このアニメが社会的な現象となって、今までアニメに見向きもしなかったいろいろな人が言及するに及んだのは、逆に完全オリジナルではなく、今まではとても結びつくことの無かったさまざまなジャンルの複合体であったゆえんであるかもしれない。
過去のアニメは勿論、科学から映画、宗教、哲学、心理学など、今までのアニメに無かったような方面の語彙とシステムと考え方がちりばめられたこのアニメは、本当に色々な方面の色々な人がやたらと深読みしていた。
今となっては昔話やけど、ありとあらゆる解釈が世間に満ちていたのは当時結構びっくりしながらも面白かったり笑えたりしたものだ。
エヴァンゲリオンがアニメ史を変えたという言い方をよくするけど、それは、ガンダムが今までのロボットアニメを根底から覆したのとはまたタイプが全く違う。
どちらかと言うと、その色々なジャンルの複合体の形式としての「エヴァンゲリオン」は、メインカルチャーからサブカルチャー含む、一つの歴史解釈とも言える総決算の形だったのではないかと思った。
で、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」で始まるシリーズはそういった「新世紀エヴァンゲリオン」のまた一つの総決算と言うことになるのだろう。
「新世紀エヴァンゲリオン」を観たことのある人たちはそのストーリーにちゃんとついていけるけど、全く予備知識も無い人は果たしてちゃんとついていけるのだろうか?どうなのだろう?

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