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2008年12月24日

クリスマスの宵山でええじゃないか?

「わかりやすさ」というのは一つの価値であると同時に一つの罠としても優秀であるように思う。なんとなれば「わかりやすさ」が目立つばかりにその陰に隠れた落とし穴に気づきにくいからである。
また、なんらかの「象徴」は「象徴」となる事物そのものに価値があるのではなく、「象徴」の対象となる概念に価値があってこそ価値が生まれることが多いと思う。大抵の場合「象徴」となる物自体に価値があることなど殆ど無いのだ。
そして、クリスマスで連想される殆どのものがこれらの範疇に入るように思う。それらは「クリスマス的な物」の「わかりやすい」「象徴」であり、殆どのものは本質的にチープである。おまけにそれらの多くはそれにプラスして「わざとらしい」まで加わっているように見える。
「クリスマス」と聞いて拒否反応を脊髄反射で示してしまう人種はここらあたりに過敏反応しているのではないだろうか。


冬至や土用、彼岸などの日本の年中行事は、南瓜やウナギやおはぎなど、意味を持たせた食べ物と関連付けられている場合が多く、食べ物とセットになって覚えられることが多い。逆に言えば食べ物に関連付けられた年中行事は忘れられにくいともいえるだろう。
しかし、「クリスマス」に関する食べ物、ケーキや七面鳥などは本来「クリスマス」自体に何の関係もない。
西洋的な文化からすればそれらはただ何かを祝うためのパーティー料理に過ぎなかったケーキや七面鳥(鳥の腿肉)は、そういった祝い事にそういったものを食べる文化の無かった日本では、パーティー料理という意味あいではなくクリスマスの食べ物としてクリスマス性を獲得したのだろう。
そして食べ物とリンクした年中行事はいったん定着してしまうと中々消えることは無いのである。
しかし、元来の年中行事ががっちりと根を張っているキリスト教国でもない日本の風土で、「クリスマス」が年中行事としてこれほど定着していることは本来不思議なことであるといえば不思議であるかもしれない。
「クリスマス」がそうなることは消費行動の増大という意味からすれば商業的にとても魅力のある現象であるけど、節分の太巻きが寿司屋の陰謀であるとか言うように、単純に「クリスマス」が何らかの商業的な意図でもって情報操作や扇動によって煽り立てられたものであると言い切ってしまうのも間違いであるように思う。
例えば、以前からアメリカではなかなかのイベントである「ハロウィン」を定着させようとする商業的な意図が完全に失敗しているところを見ると、いくら情報操作されやすい国民性といっても、全く土壌の無いところにとってつけたようなイベントは定着しないのである。
クリスマスが日本に定着したのはそれなりの必然性とか理由があるように思われる。
キリスト教的な視点から見た「クリスマス」が日本の現状の「クリスマス」と乖離している一般的な事実は、日本の現状の「クリスマス」がキリスト教的な本来の「クリスマス」を祝っていない事を表しているのは明らかであるし、そのことは「クリスマス」がただの切っ掛け、言い換えればダシに過ぎないということをも表しているように思える。
キリストの誕生というまぁ祝って害の無い妥当な出来事をだしにして騒ぎまくるのは、「クリスマス」が日本的とも言える「村祭り的ハイテンション欲求」の絶好のターゲットとしてそのはけ口になっているからではないだろうか。
本来の意図を度外視した騒ぎぶりはなんとなく「ええじゃないか」運動に似ているように見えてしょうがない。「クリスマスでええじゃないか」というわけである。
「ええじゃないか」ではないけど「村祭り的ハイテンション欲求」に関して「同じ阿保なら踊らにゃ損々」という言い方があるけど、「同じ阿呆なら踊ったら損」という見方もあっていいのではないかと思った。

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