ベートーヴェン漬けの大晦日

このエントリーが2008年最後のエントリーであると同時に、日付詐称はあれど丸3年目のエントリとなる。よく続いたものだ。感心するやら呆れるやら…
年末になるとこの一年はどうだったとか、次の一年はどうしたいなどということを良く書くが、死ぬまで永遠に生きるかのような暮らしをしている我々は、その死ぬまでの永遠の生に何かしらの区切りを引きたい欲求があるのだろう。
はるか昔、私が卒論でニーチェについて書いていた時、ハイデガーの言うニーチェの永劫回帰は将来と過去の衝突である現在の瞬間に関する思想である。ってところの「将来と過去の衝突」の捉え方にやたらと苦労して、結局ちゃんと納得した答えを出せなかったのだが、最近では例えば年末とか誕生日とかの何かしらの区切りになる日にこの「将来と過去との衝突」を感じることが多い。ああ、これは私がいることで起きている衝突なのだなと。
学生時代に理解できなかった筈の事が感覚として自分の中にあるのはとても不思議である。
なんというか、学生時代に自分自身で問題として取り上げ、必死で書いた卒論のテーマがこの年になっても自分の生の中で何かしらのテーマとして問題意識の中にあり続けているということは中々に素晴らしいことであると思う。
現在卒論を書いている貴方、これを一生の宿題と受け取るか一生の呪いと受け取るかはわからんけど、とにかく行き詰れば、自分の中にある問題意識に沿って、自分が問題に思うことについて書いてみれば突破口は開けるはずである。健闘を祈る。


朝から起きて部屋の掃除をし、昼が過ぎてから霙が降る中を自転車に乗って町に出て8GBのmicroSDHCを1490円で買った。安くなったものだ。
マンガン電池を買い、ワインを買い、本屋とCD屋を冷やかして、家に帰って音楽を聴く。
先日ベートーヴェン本を読んだこともありひたすらピアノソナタを聴きまくり、大晦日ということで恒例のN響の第九をテレビで観た。
ベートーヴェン好きの私は年末に限らずこの曲をCDやらMP3やらで聴く事は多いのだが、映像で見る第九は合唱隊の前にいるトライアングルの人と第三楽章中ずっとと第四楽章の殆どを座ってじっとしている独奏者が気になって仕方ないのだった。
この2008年はいろいろな意味で「老い」を感じた年であった。今の私の年はまだまだ若い内に入ると言う人も多いけど、力だけで押したり物量で押したりする古式ゆかしい兵法にはっきりした限界を感じた。これからは変革ではなく発展が求められているような気がする。
村上春樹はデビュー作で「もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。」と言っていたけど、これが本当に一般論でしかないことをつくづく感じた年であった。
私事以外で言えば、社会的に2008年は中々大変な年であったらしい。
2006年の最後にも同じようなことを書いたけど、2009年が希望に満ちた年になり、2009年のブログもそんな楽しいエントリを提供したいと願いつつ、ベートーヴェンの交響曲第九番、作品番号125の第四楽章のバリトンのレチタティーヴォを2008年の最後の言葉としたい。

O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.
(おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか)

ということで、旧年中は大変お世話になりました。
来年も、土偶StaticRouteと土偶をなにとぞよろしくお願い申し上げます。m(__)m

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