映画:「バットマン」 /異形崇拝とアメリカンドリームのハイブリッド

なかなか評判の良い2008年公開の「ダークナイト」を観るつもりなので、その予習がてらにティム・バートンの監督した初期二作の「バットマン」(1989/米)と「バットマン・リターンズ」(1992/米)を観た。
ということでまず「バットマン」の感想を書いてみる。
amazon ASIN-B00005HC6I この映画化された「バットマン」はアメリカン・コミックスの原作や、そこからの直接派生であるアニメ版とはとはかなり違っているらしいけど、漫画もアニメも見たことが無いので違いは全くわからない。
それでもネットで調べてみた限りでは「スターシップ・トゥルーパーズ」の原作への冒涜加減なんかに比べればはるかに原作に忠実で、「スターシップ・トゥルーパーズ」と『宇宙の戦士』の関係に比べれば、演出レベルの違いといってもいいのかもしれない。まぁ比べるのも何やろうけど。
アメコミ原作という事で無駄に明るく無駄にハイテンションで無駄に勧善懲悪な物語だと言う先入観があったけど、ハイテンションなのは狂気なハイテンションなジョーカーだけで、映画全体に妙に重苦しい暗い雰囲気が立ち込めていてちょっと新鮮だった。


ネットでの情報によれば、この映画ではどうやら監督であるティム・バートンの『異形への愛』が多分に込められているらしい。見た目の意味だけでなく、狂気を内に秘めた「バットマン」と狂気を体現した存在である「ジョーカー」の対比がこの映画のキモなのだとされている。
しかし、彼らはただ虐げられて差別されるだけの「異形」ではなく、「異形」となることで何かしらの力が増幅されている。ジョーカーにしろバットマンにしろ、異形となることが彼らの本来の狂気や力を解放させるきっかけとなっていた。
合理科学的な文明が発達した今となっては「異形」はネガティブなマイナスイメージがあるけど、地域を問わず古くから「異形」は神の使いとして特別視されていたし、現在でもヒンドゥー教の影響が強い文化圏では奇形児が生まれたと聞くや、病院の機能が麻痺するほどに人々が殺到して拝み倒さん勢いである。
一般的に社会的な弱者になりやすい異形であることが神に選ばれた特別な存在である証拠だというのは、自分が異形であること、異形の子を生むこと、などに対して社会からの肯定的な価値を得られることによって、社会的な側面でも個人的な自意識の側面でも大きな意義があったのだろう。
しかしそんな価値が廃れた現在、この映画のように異形であることが自分の力や才能を開花させたり自分の殻を破るきっかけになるというのは、いわば異形崇拝的な側面と、自らの力で道を切り開く的なアメリカンドリーム志向な、一見合いそうにない二つのものの取り合わせのハイブリッドともいえるし、そんな考え方自体が「異形崇拝」と「アメリカンドリーム」のキメラという意味で異形であるともいえよう。
異形であることに価値が与えられていない現代では、いろいろな意味で自分を異形だと感じている人にとってそういった考え方は魅力的ですらあるだろう。
しかし、異形であることが点火剤として作用するためには、少なくとも増幅されたり開花されたりする必要のある才能なり力ないがないといけないというのはやっぱり世知辛い世の中だと思った。

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