映画:いのちの食べ方 / 中立的な食ドキュメンタリー

amazon ASIN-B001F8ROI2レンタル屋さんの新作の棚に並んでいて思わず借りてしまった。
豚、牛、鶏、野菜、魚などがどうやって生産されて加工され、食料品として食卓まで来ているのかというドキュメンタリーである。塩を掘る映像まである。
食べられるための動物たちの誕生、そして殺されて肉として加工されるまでの一部始終の、そして野菜を育てて収穫し刈り取るまでの、台詞も説明も演出も無い淡々とした映像が続く。
全く説明が無いので何をしてるのか全くわからないシーンもある。
大抵こういった映像は見るものの加害者意識を煽って人間の業の深さとか命の大切さとかいったありきたりな方向性のメッセージ性を忍ばせている事が多いけど、どの立場にも組しない映像は中々好感が持てた。
牛を殺すシーンも吊るされた豚の腹を割くシーンも、アスバラガスを掘るシーンも塩を掘るシーンも同等に扱われているのがよかった。


見方を変えれば、膨大な生産力と加工力を持つ機械化されて練された工場が如何に効率よく大量の食物を大量の人々に供給しうるかについてのドキュメンタリーととることもできるし、「命」が如何に「モノ」であるかを知る映像でもあるともとることが出来る。
牛や豚や鶏が殺されて吊るされてベルトコンベアを流れるうちに、最後には肉の塊にまでなっているシュールさは、なんだかカフカの小説を読んでいるようでもあった。エグいとか残酷というよりは「すげー」と感心して見られた。
牛が筒状の銃を眉間に向けられた時の自分の死を悟っているとしか思えない暴れ方と、動脈を切った時の血の量、それからひよこの頑丈さが印象に残っている。
屠殺や加工や収穫など、本来なら肉や野菜を食べる我々自身がするべきことは見て理解しておくべきだという意見は一般的に受け入れられている考え方であるように思う。
その考え方からすれば我々の生活を支えている半導体とか電気とか化石燃料の成り立ちや仕組みも、ただのブラックボックスにしておくのではなくもっと理解されようとして然るべきではないだろうか。
肉や野菜がどうやって作られているのかを知るべきであるのなら、同様にコンピューターや電力がどうやって動作して作用して我々の役に立っているのかも知るのも悪くないのではないだろうか。
こういった映像を見て「動物さんたちが私に命を!」とか言って加害者意識に酔う傾向は、自ら酔うために他人に対してわざわざ加害者になろうと試みる意識がチラチラ見えることが多く、基本的に危ない方向性やなぁと思うのだが、かといって「私のために肉になって当たり前」とか言ってしまう方向性も十分危ないと思う。
知の観点から感情的な部分を揺さぶられるのもどうかという見方もあるわけで、それなら最初から近づかないのも実は謙遜で賢明な選択なのではないかと思った。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

PAGE TOP