木村敏 『異常の構造』 / 医学系というよりは哲学系 /博士の異常への愛情

amazon ASIN-4061157310精神医学の本で、笠原嘉、中井久夫とくれば木村敏ということらしく、木村敏の中でなかなかに有名で面白いと評判の『異常の構造』を読んだ。1973年出版とかなり古い本である。
一応この人も笠原嘉、中井久夫同様に精神医学にかかわる人であるけど、読んでいてなんだか哲学書を読んでいるような感触であった。
私の勉強不足であるのだが、この木村敏という人は精神医学者であるけど、時間論や関係論で人間の精神や精神医学について語る人で、ハイデガーなどと関連付けて言及されることも多いようだ。
たしかに、笠原嘉や中井久夫の本とはまったく雰囲気の違う本で、「正常」と「異常」についてひたすら根源的な問いを掘り下げてゆくような本であった。
「正常」と「異常」や「合理性」と「非合理性」の概念を言語の意味で分解や分析したり、「一」と「全」の関係と自己の論理として展開するあたりは、もう哲学か言語学か或いは禅みたいな話であった。


彼は世界は非合理が前提であり、脆く危うく不安定な「合理性」を仮定した上になんとか「正常」を保っているに過ぎず、「正常」が「異常」を前提とした概念であるとしている。
そしてそれを前提として、普段われわれが「正常」としているものが実はとても非合理的であり、そして異常とされる人の精神がとても合理性に基づいているとしている。
人が異常とされるのは、論考するまでもなく自明とされている事を理解できずに行う言動が、人間関係の中で現象としてだけ現れて来ているだけであると。
たとえば、統合失調症の父親が死期の迫った娘にクリスマスプレゼントとして棺桶を贈った事例を引き合いに出して、棺桶はもうすぐ死ぬ娘にとって役に立つという意味で合理性に適っているけど、非合理的な感情論で言えば異常である。としている。
そういわれると確かに納得できるし、異様な理屈っぽさとか合理性のみを追求した姿勢ってのは確かに病的に見えることが多いものである。
昔話題になった「なぜ人を殺してはいけないのか」という話は、絶対的に合理的な理由は見つからないし、論考するまでもなく自明とされている、ダメだからダメ、としか言いようがないし、最近の「空気読め」の「空気」もそういった非合理的な自明な事実の部類に入るだろう。
「合理性」が「異常」の側で、「非合理性」が「正常」の側であるという見解それこそが、我々が常々自明としていたものが実は不安定で危ういものでしかないことを暴露されてその存在を揺るがされるような、我々が異常者に対して抱く嫌悪や恐怖を抱かせるものなのかもしれない。
彼はこの本の中で一貫して「正常」であることが自然の中ではむしろ特異な状態であり、「異常」である方が自然に適った状態である。というところ繰り返し述べている。
彼はこの本を「多数の分裂病患者たちへの、私への友情のしるし」と述べ「しょせん「正常人」でしかありえなかったことに対する罪ほろぼし」だとしており、この本の中には著者の精神病者への愛や憧れのようなものすら感じる。
笠原嘉が治療者の立場を貫いていたのとは対照的に、この木村敏という人は「異常」側の患者の立場から「正常」を分析しつつ、「異常」と呼ばれる精神病患者をそのままで理解し、また彼らが世界をどう感じてどう見ているのかを知ろうとする方向性で「異常」を肯定的に書いた本とでも言おうか。
異常者を正常者に戻すのではなく、異常者のままでの地位向上を目指しているようにも見える。
この本が精神病である状態の苦しみや辛さにほとんど触れていないのは、彼が精神科医というよりは精神医学者であるからなのだろうなぁという気がしないでもない。
笠原嘉や中井久夫が健康的で安心感を感じるのに対して、この木村敏という人はひどく危うい感じがする。もし、こういった人が「異常」の側に傾いてしまったら誰が治療者としてかかわるのだろうか?それとも自分で治療ができるのだろうか?
なんかちょっとこの人大丈夫なのかなぁ。と思った。



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