サリンジャー死す / 『ライ麦畑でつかまえて』 / 「ひきこもり」最終形態サリンジャー

amazon ASIN-4560070512amazon ASIN-4560047642今日サリンジャーが死んだ。
もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。ってその書き出しはカミュ ですね…
ということで、サリンジャーが死んだので私の大好きな本のひとつである『ライ麦畑でつかまえて』 とサリンジャーについて書いてみる。
この『ライ麦畑でつかまえて』 は主人公ホールデン少年がオトナ社会の欺瞞と醜さに耐えられずに社会を拒否し、学校を辞めて寮を抜け出し、家に帰るまでの三日間の独白の物語である。
なんといっても彼の繊細で脆い心から発せられる心の叫びが読みどころと言っていいだろう。
私にとってこのホールデン少年は村上春樹の小説に出てくる「鼠」と同じ方向性の弱さと純粋さと脆さを持つヒーローといってもいいと思う。
この本を主人公のホールデン少年よりも小さい年齢のときに読んで、彼がただ生意気な少年にしか見えず面白くなかった。という話を聞いたことがある。
しかしそれは、ホールデン少年の大人ぶった生意気な態度が実は裏返しの強がりであり、その陰に隠れているとても臆病で繊細で潔癖感の強い感情を読み取れなかっただけであると思う。
若い頃にはただ自分と同じものとして同情程度であったホールデン少年であるが、この年になってみると、自分の回りに滅茶苦茶に痛々しいほど気を使い、インチキとまやかしと欺瞞と嘘に耐えられず、それでも強がっている彼の中に見える弱さと純粋さがとても美しく見えて若い頃よりもより心に迫ってくる。
小さい頃に読んで納得いかなかった、もう大人になった諸氏はもう一度読み返してみてはいかだだろう。
今若者真っ盛りの方も、自分が若者だったことを忘れた方も、脆くて繊細で純粋なホールデン少年の独白に耳を傾けるのは、自分の中にまだ残っているそんな感情を揺り起こしてくれるような気がする。


この『ライ麦畑でつかまえて』 の原題である『The chatcher in the Rye』であるであるけど、これは主人公のホールデン少年が妹に、将来何になりたいのか?と問われて、崖のあるライ麦畑のようなところで遊んでいる子供たちが、崖から落ちそうになったら、さっと現れて「catch」する人間。I’d just be the catcher in the rye and all
と語ったところによるようだ。
しかし醜いオトナたちに吐き気を感じ、純粋な子供たちが大好きだったホールデン少年は将来何になりたいかなど全く考えたことはなく、ただただ世界に拒否されて世界の住み辛さしか感じていなかった。毎日をサバイバルするだけで精一杯であった。
そんな彼が苦し紛れに答えた自分のなりたいもの「the catcher in the rye」は、子供たちが自分と同じように崖から転げ落ちないようにしてあげたいという彼の願望と優しさを示している。
村上春樹はこの『ライ麦畑でつかまえて』の邦題が気に食わず、ほとんどそれを動機にして新訳を発表して「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 と最近の映画のような訳すらしていないタイトルをつけている。
確かにこれを「つかまえて」と訳すのはおかしいと言うよりむしろ逆であると思うけど、ホールデン少年が「ライ麦畑の受止め人」になりたいというのを、ホールデン少年も崖のような危険なところにいる自分を受止めて欲しいという願望の現れであると解釈したら、タイトルだけを「ライ麦畑でつかまえて」と訳すのはひとつの解釈であるといえるだろう。
あえて「ライ麦畑でつかまえて」と訳した功績は大きいと思う。
いずれにせよちょっとした本好きなら『ライ麦畑でつかまえて』の原題が「The chatcher in the Rye」であることは当然知ってるわけで、その事の意味とか問題点を再燃させたのは、逆説的ではあるけど村上春樹のおかげでもあると思う。
人は子供の頃に強烈な潔癖感とか無力感とか疎外感を決定的に感じる人と全く感じない人の恐らく二種類に分かれるのだろうと思う。
世界に満ち溢れる「インチキ臭い物」に耐え切ることが出来なかったこのホールデン少年を痛いほど理解できるか、彼が何を言っているのか全くわからないか、この違いがこの本が好きになるかそうでないかのの違いになるような気がする。
確かに、とっくに少年ではない私から見ても世界に「インチキ臭い物」は確かに多すぎる。
世界のインチキ臭さに耐えられずに苦しんでる人や、「インチキ臭い物」にインチキっぽくない人がどんどん取り込まれてゆく様を見るのはなんともつらい物でもある。
私から見て「インチキ臭い」と見える物と関わりを持ちつつも、私には関係ないものとみなして、まがいなりにも閉じこもるべき世界に逃げ込んで自分を守っている私も、ホールデン少年から見れば「インチキ臭い」だろう。
宮沢賢治は『雨ニモマケズ』で具体的な色々な行動例を出して「そういうものに私はなりたい」と言った。
そしてホールデン少年は「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたい」と言った。
たしかに、そういうものになれたらどれだけ良いだろうと思う。
でも、Nietzscheさんは「人間は汚れた流れである。それを受け入れて、しかも不潔にならないためには、我々は大海にならなければならない。」と言った。
汚れを受け入れてなお不潔にならない大海、そういうものに私はなりたい
著者であるサリンジャーはこの『ライ麦畑でつかまえて』を書いて有名になり、ますます社会とオトナ社会の醜さを見ることとなった。
そして彼はいくつかの決定的な出来事をきっかけにして自宅にひきこもってしまい全く社会との接触を断ってしまった。
天下の村上春樹が訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 に訳者解説をつけるのを拒否したエピソードは、私の好きなグレン・グールドに通ずる潔癖感を感じる。
ある意味で彼のメンタルな側面はホールデン少年とよく似ていたのだろう。
うまく社会に適合して何の問題もなく生きる人の対極にあるような、ホールデン少年の感じる潔癖感や倫理観や正義感、ちょっとしたことで決定的に傷ついてしまう心は、ひきこもっている「ひきこもラー」に共通するメンタリティーであるようにも思える。
しかし、サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』を出版することで、ホールデン少年がなりたいと思った「ライ麦畑の受止め人」になれたのかもしれない。
崖から転げ落ちそうだった青年が彼の『ライ麦畑でつかまえて』を読んで救われた例はとても多いだろう。
そういう意味では、サリンジャーは「ひきこもり」の進化した最終形態であったのかもしれない。
しかし、「ひきこもり最終形態サリンジャー」というとなんか戦隊モノみたいですな。
ホールデン!フィービー!フラニー!ゾーイー!シーモア!五人あわせてサリンジャー!!
うん、今日はもう早く寝た方が良いな…



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