スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』/タルコフスキーとレム/全く理解できないものとのコンタクト

amazon ASIN-4150102376先日ジョージ・オーウェルの『1984年』を読んでから妙にSF小説が読みたくなり、ずっと家にあったものの放置されていた『ソラリスの陽のもとに』を読んだ。
ストーリーとしては、
100年以上に前に発見された、青と赤の二つの太陽を持つ惑星ソラリスに浮かぶ惑星探査施設に、原因不明の異常な事態を究明するために心理学者である主人公が到着する。
施設は荒廃し、研究員たちは狂気のようなものにとらわれ、いるはずのない人間を目撃するに及んで探査施設は想像以上の事態に陥っていること知る。
そして次の日、目を覚ました主人公の目の前に自分のせいで自ら命を絶ったはずの恋人を発見する。
それがどう見ても本当に恋人であるとしか思えない主人公は狼狽しつつも、その他の研究員にも同様のことが起こっていることを知り、そしてそれがそのソラリスの表面のほとんどを覆い尽くす、自らの公転の軌道を一定に保つ能力を持ち、知的反応を起こす有機的な「海」によって行われたことを知り、主人公はその「海」とのコンタクトを試みる。
という感じの話である。
厚い目の文庫本だったが、気がつくとほとんど一晩で読んでしまったほどに、飽きさせず中だるみのないとても面白い本だった。
この本はポーランドのスタニスワフ・レムによって書かれて1961年に発表されたSF小説の古典というべき本であり、私の読んだハヤカワ文庫版はロシア語役を日本語訳した重訳版である。
もしこれから読もうとする人がいたら国書刊行会によるポーランド語原典からの新訳版 のほうが良いかもしれない。
そしてこの本は私の中で最も好きな映画のうちのひとつであるタルコフスキーの「惑星ソラリス」の原作でもある。
文庫本の表紙はソダバーグによるリメイク版の写真が使われているが、こっちは見ていない。


そのタルコフスキーの「惑星ソラリス」は赤と青の二つの太陽をもち、妖しく波立つ知性を持った海を持つ星という特殊で神秘的な静かな環境の中で、目の前に現れた、過去に図らずも主人公が死に追いやってしまった筈の恋人との関わりを映画の中心にして、自分が何者であるかを知ってしまったその恋人の姿をした何かと、その主人公の愛の再生を描いていた。
人間にとってのアイデンティティーだとか愛だとか死だとか人生だとか救いだとかそうった根源的なものを主題にした、どちらかというと人文的で哲学的なテーマが前面に押し出された、芸術的に美しい映像を持って迫ってくるすばらしい映画であった。
一方原作の『ソラリスの陽のもとに』は重力を制御することで自らの惑星の公転を調節し、機械から構造物まであらゆるものを複製して作り出し、人間の深層心理やトラウマを読み取って現実化させる能力を持つ、人間とは全くかけ離れた理解も想像も及ばない、コミュニケーションの取っ掛かりもない知的存在としての「海」との関係をメインテーマとした小説である。
作者のレム自身がそのあとがきで、今までのSFの典型的な地球外生命体の扱いである、勝つか負けるか協力かの3つのパターン以外の知的生命体との接触を提示したかった。と言う意味のことを書いているように、SF的には「ファーストコンタクトもの」の主題をもつ、文化人類学的だったり社会学的だったりもするテーマをもつ作品でもあり、タルコフスキーの「惑星ソラリス」とその主題は全く違っているともいえる。
原作者のレムがタルコフスキーの映画化を全く気に入らず「タルコフスキーが作ったのはソラリスではなくて罪と罰だった」と批判したのは言い得て妙であるけど、
それでも、「惑星ソラリス」と『ソラリスの陽のもとに』の静かで静的なSFというちょっと不思議な印象はとても似通っているように思える。
『ソラリスの陽のもとに』では余りにもあっさりと描かれていた、個人的でミクロ的にしかなりえないテーマーをとことんまで追求して描いたのがタルコフスキーの「惑星ソラリス」という風にいえるかもしれない。
『ソラリスの陽のもとに』がSF的な科学的な前提と手法をベースにして知的にイマジネーションを刺激される一つのファンタジーな方向性を追求した物語であるのなら、「惑星ソラリス」はSF的な特殊な環境下を設定することで人間にとっての根源的な問題を純化した形で結晶させた物語であるといえる。
映画とその原作ではほとんどの場合原作の方がはるかに面白いことが多いが、この『ソラリスの陽のもとに』と「惑星ソラリス」はどちらも別の方向ですばらしい作品であった。
とはいえ、私はバッハの小品がしっくり馴染んだ、追い詰められるような長回しの、あの美しくて静かな『惑星ソラリス』の方が「芸術」としてすばらしいとは思う。
話は全く変わるが、世の中にはよくもまあこれだけ見事に人の嫌がるポイントを突いてきたりトラウマをえぐろうとする人がいるのなだぁと。驚いたり感心したり悲しくなったりすることが多い。
そして、そんな人はたいていの場合、そんなことをすることで何の利益が得られるのか、その人が一体何のためにそんなことをするのか、ただの悪意なのか気を引きたいだけなのか自分が優位に立ちたいだけなのかそれとも他の理由があるのか、その人を理解しようとしても全く不可能である事がほとんどである。
「まったくその動機や目的が理解できない奴は理解しようとする試みを放棄してそういう人間なんやとだけ思っておく」といった「カッツの法則」なる経験則が私の友人たちの間で経験的に確立されているのだが、更にこの『ソラリスの陽のもとに』を読んでいれば、そういう人にいくらいやな目に合わされても「ソラリスの海みたいな奴やー」として、理解もコミュニケーションも及ばない知的生命体の一つのタイプとして、ただコンタクトするだけしかできないし、それで十分だと思えることができるかもしれないし、そして最後には主人公のように握手を拒否されてもソラリスの海を無条件に「許す」ことができるかもしれない。と思うことくらいはできるかもしれない。

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