近頃都に流行るモノ。

自己否定的な感覚というのは倒錯的な選民意識に相違ないと思う今日このごろ。皆様いかがお過ごしでしょうか?
本日のお題は巷で噂のweb 2.0について。
気分を変えていつもと違う文体でお届けしてみる。
別人格のつもりではないが、素のままでもない。ではなんだ?と問われても非常に困る。
ただただ、違う文体である。


乗り遅れたからルサンチマンで言っているのでは決してないのであるが、21世紀初頭に数々の腐れIT長者だのウンコIT株長者だのを大量生産したドットコムバブルなるものが弾け飛んだのは皆の熟知するところであるが、こと最近第2のドットコムバブルの悪寒と噂される「web 2.0」がはち切れそうな程膨らんでいるともっぱらの噂である。
私がその「web 2.0」なるものを皆目理解していない故の言い草では決してないのだが、今や猫も杓子も大企業も個人経営者も、システム屋からコンテンツ屋まで白痴のごとくインターネットの中心でweb 2.0を叫んでいる世の中である。
平氏にあらずんば人にあらず。web 2.0にあらずんばイソターネットにあらず。というわけである。
しかし、悲しいかな当然白痴の戯言である故、意味は皆目不明であるし、叫んでいる本人が理解できているのかすら、はなはだ疑問である。「さいたまさいたまー」とはしゃいでいる様とさほど変わらない様にしか見えないのは私だけであろうか?
死肉に群がる禿鷲、馬糞に群がるフンコロガシのごとくに一儲けを企む腹黒い輩が「web 2.0」あれ!というTim O’Reillyのご神託に群がり群れをなしているわけだが、ここでちょっと待って欲しい。
そもそもweb 2.0とは何なのだ?google原理主義、O’Reillyエバンゲリズムを取り繕って言い直した方言ではないのか?
百歩譲って、千歩譲ってweb 2.0を有用なものとして、雑多なコンテンツを統括的に統合する概念を含んでいるとしてみよう。
三人寄れば文殊の知恵というが果たしてそうだろうか?小学生が三人寄ったところでウラン235の半減期を測定したり、カントの三大批判書を通読したり、成人男性の性欲に対して同情的な見解を結論づける事など不可能であるのが道理であろう。
私はいくらweb上に散在するゴミコンテンツを統括的に結合したところでゴミはゴミであり、ゴミ以上の価値は決して生まれ得ないと確信している次第であるが、中にはゴミを好んで食する嗜好の御人も存する故、ゴミを集積して並べて悦に入るのもゴミ的に価値があると言わざるを得ないのだろう。
何よりも問題なのは、陳列されたゴミを価値だと説明されて、「ふむぅ。そういう世の中であるのか」などと納得してしまいそうになる私が怖いのである。ゴミを価値だと真顔でうそぶく輩の破廉恥ぶりに赤面を押さえきれないのである。
電子計算機なるモノの基本的な概念にデバイスであろうがファイルであろうが全て同列のモノとして扱うという黄金則が存じ、電子計算機が価値判断を人間にゆだね、エロ画像もプリンタもキーボードも修士論文も同列にファイルとして扱う事で処理速度なり処理ルーチンに没頭するのが電子計算機が電子計算機たる所以であり、電子計算器が「電子考え機」や「電子判断機」でないから計算器なのであるのは言わずもがなであろう。
web 2.0で構成されたインターネットが「電子計算機」の群れではなく、「電子考え機」や「電子判断機」のフィルタを取ったインターフェイスの間口になるのは、思考停止、判断停止、ひいては価値の押しつけインターネット時代が到来し、益々のバカが量産され、バカでないモノまでバカ浸食されるのではないかと懸念している次第である。
「バカはバカ、かしこはかしこのインターネット ゴミの山は ゴミの山なり」
(季語:インターネット)

皆様はweb 2.0をいかがお考え、お感じになっておられるのでありましょうか?
なお、あまりの駄文、あまりの言いがかり、あまりの適当さ、あまりの一貫性の無さの文章ゆえ苦情など言われても困るという事を申し添えておく次第であります。

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