全ては移り変わる/どうする?グローバリズム?/おいでやすグロバリゼーション/そして世界は変わる

私がまだ子供だったころ、
すべては常に成長し続けると信じられていた。
経済や技術や株価や地価やGDPのグラフは、
常に右肩上がりにしかならないと思われていた。
私がまだ子供だったころ、
公務員や教員は最も人気のない職業の一つだった。
「安定」などというモノは最も生産性のないものとして、
まともな人が求めるべきではない「成長」を阻害する価値だと思われていた。
私がまだ子供だったころ、
我々の想像しうる最も辛い地獄は「終わりなき日常」に生きる事だった。
何もかもが変わらず死ぬまでの未来が予測できること。
死ぬまでぬるま湯の中に浸かりながら徐々に老いてゆくこと。
そんな世界に生きることは、最も価値の無い生き方であると思われていた。
そして今、それは完全に逆転している。
現在就職活動真っ盛りの大学生に言ってもにわかに信じてもらえないと思うが、
私が小学生から高校生くらいにかけてのバブル真っ盛りの時期、社会全体で本当にそういう価値を共有していた時代があったのだ。
ほんの数十年前に選ぶべきでないとされたもの、最も辛いものだとされた地獄のような人生は、
今や最も価値あるものとして誰もがどんな犠牲を払ってでも欲しがるものである。
誰もこれから日本が発展して行くとは考えていないし、自らの人生が「安定」「未来が死ぬまで見通せる」「ぬるま湯の中で暮らす」事で彩られるのは最も素晴らしい価値を手に入れる事の一つだと思われている。
数十年で価値は180度変わっている。
しかし、そんな価値も数十年後にはまた根本的に否定されているだろう。
社会的な大きな波によって人の抱きうる価値などあっけないほどに変わってしまう。
思春期に戦争を経験し、大人になって終戦を迎えた「戦中世代」同様に、
最も多感な思春期の頃に社会で共有されていた価値が、大人になると完全に否定されている世界に生きる「ロスジェネ世代」も価値がどれだけ相対的でしかないかを実体験として知っているのではないだろうか。


今の例は数十年というスパンの出来事であった。
しかし、数年レベルの間でもものに対する見方は180度変わっている。
例えば、ほんの少し前まで「グローバリゼーション」はなにかしら希望を持ったものとして語られていたように思う。
日本企業や日本人が「グローバル化」することの真の意味はグローバルに世界全体に対して戦いを挑み、経済的な侵略と搾取を行うことだと思われていた。
しかし今日本が「グローバル化」する事は世界から侵略者を招き入れ、搾取を受け入れる事だとして捉えられている。
おらが村が隣村に農具を売るのはいいけど、余所者がおらが村で米を売るのは嫌だというわけである。
そんな中で東大が秋入試に全面移行する予定であるというニュースはとても象徴的だ。
今までグローバル化に関して日本で最も論点とされていた、例えばTPP等などについての問題は、グローバル化そのものを「受け入れるか受け入れないか」のレベルだった。
しかしこの東大の発表はグローバル化を「どのように乗り越えるか」のレベルの対応である。
言い換えれば、日本の最高学府が、その「受け入れるか受け入れないか」の是非を問うことなく、グローバル化することは避けられないと判断し、またこのまま日本だけを相手にしていたのでは「グローバル化」の波を乗り越えられないと判断して、対ショック体制をとったということである。
何かに対する見方、また価値そのものは社会状態によって文化によってまたその他の様々なものの間で目まぐるしく変わる相対的なものでしかない。
そして我々の人生はその相対的な価値のゆらぎと社会の移り変わりの波間に漂うものでしかない。
人生の浮き沈みと言うのは如何に次に来る波を読み、迫り来る波に体の向きを合わせ、飲み込まれることなく波に乗るかにかかっている。と言う事も出来るかもしれない。
数十年前の価値が今180度変わっているように、今揺らぐことなく社会が共有している価値そのものが、数十年後には根こそぎ消滅しているかもしれない。
今、当たり前だと思われている社会体制や社会システムも数十年後には跡形もなく崩壊しているかもしれない。
そして、変化は明らかに早くなっている。大きな波は確実に迫っている。波はもう直ぐそこにまで来ているかもしれない。
今目前に迫って大きな脅威に見える「グローバル化」の波ですら、より大きな波の前触れに過ぎないかもしれない。
本当に何が起こるかは誰にも分からない。ただ分かることはすべては移り行き変化することだけである。
——
今一番苦しんでいるのは、社会の底辺の波間で藁にすがって浮き沈みつつする小さな人々である。
しかし、今一番恐れ、一番恐怖しているのは自分が波間に放りされるかもしれないと船の上で戦々恐々している人々であろう。
これくらいのくらい大きな船なら大丈夫だろう?と人はなるべく大きく頑丈な船に乗ろうとする。
しかし問題は「どのくらい大きな波が来るのか誰にも分からない」ところにある。
次の波で、これから来るであろう波で「どの大きさの船なら沈まないのか」誰にも分からないのだ。
今、一番必要なのは、「なるべく大きな船に乗ること」でも「なるべく大きな船を作ること」でもなく「波間で溺れずに漂う術を身につける」ことかもしれない。
海に放り出されないようにする努力は全く無駄に終わるかもしれない。それよりも海に投げ出されるのを前提に考えた方がいいのかもしれない。
しかし、恐れることはない。と思う。
多くの船が破壊されて沈むということは、
今まで海の中で一人、板切れ一枚にすがるしか無かった、波間で浮き沈みする最底辺の人たちにとっては、よじ登って体を乾かしたり、いかだを作るための船の破片を手に入れる機会が増えるかもしれない。
今まで藁にすがって波間を漂っていたことを思えば、板につかまって泳ぐのはとても快適だ。
今現在波間で漂っている人にとって、大きな波が押し寄せることはその波に飲み込まれさえしなければ、より快適に海を漂うためのものを手に入れるチャンスが増えるだろう。
そして「大きな船に乗っているつもり」の人々、或いは「とりあえず船に乗っている」人々、つまりいずれは確実に海に放り出されることが運命付けられている人々、そんな人々もそれほど恐れることは無い。と思う。
確かに大きな波が来て、中途半端な大きさや頑丈さの船が粉々に破壊されてしまえば、その船に乗っていた人たちは皆海に放り出される。
それは今まで船に乗っていた人にとっては恐怖でしかないだろう。
しかし、海に放り出されても、とにかく生き残りさえすれば波間に漂うことはそんなに辛いことじゃないかもしれない。
自分と一緒に海に放り出される人は予想以上に沢山いるだろうし、自分たちが海に投げ出される前から既に海を漂っていた人たちも沢山いる。少なくとも自分は広い海で孤独ではない。
はるか以前から荒々しい波間を生き抜いてきた人たちから、荒波を漂うための知恵を学ぼうとする姿勢を持つ限り、波間で漂う生き方にもそれなりの楽しさがあるのだと学ぶことが出来るかもしれない。
波に揺られながら自分の乗る船が何時沈むかビクビクしながら身を縮め、世界がこのまま変わらないように来る日も来る日も同じ船倉を見つめて願い続けているよりも、
流れてきた船のきれっぱしで組んだいかだに乗り、魚を釣りカモメを捕獲しながら、時にはどこからか流れてきた蟹の缶詰とよく冷えた白ワインを飲む幸運を味わいながら、常に移り変わる海と空を眺めてその変化を愛でる方がはるかに楽しいかもしれないのだ。
今の基準でしかない「より良い未来」を信じて死守するために必死で変化の波に抗おうとする人よりも、
根本から変わりつつある大きな世界の変化を体感するために自ら変化の波に飛び込んで行く人の方が遥かに楽しそうに見える。
そう考えると、これからどう社会が変わってゆくのか、これからどんな予想以上の事が起こるのか、ちょっと楽しみに思えてくる。
例え未来が暗くとも、例え未来が闇であろうとも、変化を楽しむことが出来れば、大きく多く変化する世界は大きく多く楽しむことの出来る世界である。
もし資本主義そのものが根本から折れて崩壊する様が私の生きている間に見られるのなら、それほど壮大な見ものは中々無いだろう。
世界は常に変わり続ける。
未来は今よりも悪いかもしれない。今より良い未来は訪れないかもしれない。
しかし、その「良い悪い」の基準そのものが移り変わるのだ。
どんな波が来ても沈まない船に乗っている人は何も問題は無い。
しかし、今、波間に漂っている人、沈みかけの船に乗っている人が最も気をつけるべき事は、とにかく波に引きずり込まれないようにする事、とにかく死なないようにする事、皆とはぐれないようにする事だけだ。
生き残ってさえいれば何とかなる。
なぜならこれからの世界は波間に漂う人だらけになるのだから、波に漂う人が生き残れるように、世界も変わらざるを得ないだろう。
グローバリズムの波は乗り越える必要なんか無い、箱舟のチケットを巡って争うよりも、ただ皆と一緒にワイワイ喋りながら、沈んだ船から流れてくるワインを飲んで酔っ払いながら板切れにつかまって漂っていればそれでいいのだ。
ん?私とした事が、なんか微妙に社会派ブログみたいな事言ってないか?www

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