アンリ・ル・シダネル展~薔薇と静寂な風景~/ゆるアンティミスム

もうすでに、4月1日で終わってしまったが、く京都駅ビル、伊勢丹の美術館「えき」KYOTOで開催されている「アンリ・ル・シダネル展 ~薔薇と静寂な風景~」に行ってきた。
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アンリ・ル・シダネルなる人物は19世紀末から二十世紀初めにかけて活躍したフランスの画家で、日常的な題材を情緒をもって醸し出すように描くというアンティミスムなる方向性を持った、カテゴライズしにくい作風を持つとされている。
この展覧会に行く事になるまで「アンリ・ル・シダネル」なる人物の事は全く知らなかったので、一応予習して行ったのだが、ネット上ではフランス大使館の解説が一番詳しいくらいに「アンリ・ル・シダネル」の情報がほとんど無い。一般的にもマイナーな人なのだろう。
これも何度も書いているけど、19世紀末から20世紀初頭というのは、ムンクとかクリムトとかシーレとかアール・ヌーボーとかの西洋美術史の中では私が好きものが集中している時代である。
科学文明が飛躍的に発展し、既成の価値が決定的に崩壊して時代が大きく変わろうとする中で、ひたすら破壊に走る奴やら極端を行く奴やら享楽にふける奴やら退廃に突き進む奴やらもうカオスな時代である。
そんな次代を通り過ぎた中でこのアンリ・ル・シダネルの描く画とそのモチーフは、庭、ガーデンテーブル、薔薇の花、夜の森、月夜、夕暮れに家々の窓からもれる光、などをひたすら情緒的なものばかりである。
世紀末を潜り抜けてきた新世紀の激動の時代に暑苦しいことばかりテーマにしていた他の画家と一線を画していたというのは良く分かるような気もする。


時代が大きく揺れ動くと無駄に大きな希望やら絶望やらが社会の中で目立つようになるけど、そんなアッパーかダウナーかのどちらかしかないという両極端をなるべく避けて日常的な小さな幸せを紡ぎながら生きて行こうとする人もまた増えてゆくわけである。
アンリ・ル・シダネルなる人物がアンティミスムなる方向性を持つということはまさにそういうことではないだろうか。
彼が激動の時代を潜り抜けてきたからこそ大事にした方向性なのではないかと。
ある意味ではアンティミスムを代表するボナールよりも、その「内的な情緒的」という方向性は際立っているようにも思える。
いくら世界が揺れ動こうとも、庭、ガーデンテーブル、薔薇の花、夜の森、月夜、夕暮れに家々の窓からもれる光、がもたらしてくれる「小さな幸せ」は変わらない。みたいな?
そして、彼が自分の妻以外に殆ど人物画を描かなかったというのも興味深い。
なんだ?人間が嫌いなのかよ?というよりも「あまりに人間的」な本性がむき出しにされた時代であるからこそ、「人間」を離れた部分の美しさとか情緒を描こうとしたのか?どうだろう?
晩年ヴェルサイユに住んでいた彼は、同じ時期に同じ町に住んでいたジョルジュ・ルオーとは全く交流しなかったらしい。
ルオーといえば、野獣派とか言われてクッキリした輪郭でキリストの顔を書く求道的なイメージがあるのだが、まさに同時代の彼の何か前のめりな暑苦しさと比べれば、対照的に彼の「ゆる~い」空気が際立つような気がする。
基本的に”美術館「えき」KYOTO”の展覧会は土日でもガラガラでもう見やすくって心地よくってしょうがないので、この「アンリ・ル・シダネル展」はマイナーな画家の上に純粋絵画の展覧会なのでさぞかし空いているだろうと思っていた(怒られるで)のだが意外に人が多かったように思う。
なんだろう?なんかこのポスターを見てついふらふらっと引き込まれる人が多いのかも知れない。
新世紀もだいぶ過ぎたというのに世紀末みたいな社会情勢に疲れ、底の見えない不景気と逆に底の見えてきた資本主義経済の限界に疲れ、日々の人間関係や雑多な日常に疲れた人たちは、ついつい日常の小さな幸せの一環として、まさにそんな小さな幸せの象徴のようなこのポスターを見てついつい入ってしまうのかもしれない。
と、人事のように思うのであった。

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