賛成の反対に反対

人間は文章でモノを考えてるゆえ、文章力は直接的に思考力に直結しているというのはもう一般論なのか?
文章力を高めるためには、これはもう文章を書くしかないわけで、でもって文章力が上昇すればより複雑な概念とかより奥まった所にあるモノを思考する事が出来るというわけなのか??
しかしながら毎日同じような事を同じような語彙で同じようなトーンで書いていれば、その同じような思考パターンの方向にだけ肥大して行くような気がする。
某ベーコンが「洞窟のイドラ」と呼び、某ニーチェが「逆向きの不具者」と呼んだ状態に同時に陥ってしまうのではないか?と思うわけである。
もちろんその方向が良い方向ならなんの問題もないわけやけど、どれだけの人間がまともな方向に向いていると言えるだろう。「肥大した自我」とまでは言わないけど、ちょっと膨らんでないか?という奴などいくらでもいる。


この土偶StaticRouteで俺は半年近く毎日欠かさず文章を投稿しているわけだが、当然その恐れが俺にも大いにある。
というか、現に自分がそういう状態にあるような気がする。
コンピューターの話とかがワカランてのはよく言われるけど、それはまぁ専門的ではあっても思考だとか人間性だとかは全く関係ない話である。
特殊な専門性があると言う意味での一般性は無いにしても、それとは違う意味でこれはちょっとヒドすぎる。と思わなくもない。
端的に言えば、何かが間違っている事を、その何かが他と違うからしょうがないと結論づけてその問題をクローズしてしまうような傾向はいただけない。
考えてみればそれは状態と原因を判断しているだけで何もしていない事になるのだ。
まともに考えれば何かが間違っていればそれを直すべきだし、少なくとも直そうとするべきなのは言うまでもない。
ポンコツ車のどこかを直せば他のどこかのポンコツっぷりが目立ち、そこを直せばまた他の…と言う話もあるけど、まぁその事に気づいただけでも良かったと言えば良かったとも言えなくも無い。こともないのか?

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