J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』

某氏の座右の本と言うことで読み直してみた。
定番?の新潮文庫、野崎孝訳である。
二十歳になるかならんかの頃に2度ほど読んだので、かれこれ十年ぶりくらいと言うことになる。
ちなみにその某氏を除いて、この本を愛して止まないと言う人と、何が言いたいのかさっぱりわからず受け入れられん。と言う人を一人ずつ知っている。
ちなみに後者の人は安部公房とアンドレ・ジイドが好きだそうだ。なんか変な組み合わせのような気もするけど、なるほどと思う組み合わせでもある。わかるようなわからんような。
仕事から帰ってきて四時間ほどで読んでしまって、何となく作者とこの本を好きな人に失礼なような気もするけど、今更何が失礼と言うこともないわな。失礼なことが出来ると思うことが失礼やわな。と思い直す。


amazon ASIN-4102057013「ライ麦」のサリンジャーと言えばもう悲しいくらいのナイーブさって感じのイメージがあって、その事はこれを読んでも変わらなかった。
昔はこれ読んで「わかるぞ。わかるぞぉ…」的な感触を抱いていた記憶があるのだが、今回読んで、俺はこんなにナイーブでもタフでもないし、暖かくも儚くもない。中と外の境界をきっちり引く人間になってもうたし、嫌な世界はこちらから拒否してやる。って思ってるもん。これを「わかる」という資格はもうすでに無くなってるなぁ。てな気がした。
今までカラ兄読んだ後は、しばらく何読んでも「効かぬ、効かぬのだ…」てな感じやったけど、この本はカラ兄とは全く別のとこから全く別の部分にヒットしてかなり効いた。
カラ兄的「典型」とは全く別の「典型」になりにくい人物の、ある種典型的な美しさは俺の中の変なトコを刺激して止まない。
結局サリンジャーを気に入るか気に入らんかと言うのは、こういう人物に美を見いだすか、こういう人物が好きかと言うことになるのではないかと思う。
「ライ麦」のような長編でなく、この『ナイン・ストーリーズ』は短編集であるがゆえに、一つ一つの話が「ナイーブさ」のおかげでどうしようもない悲劇になってしまう前や、悲劇が重くなるための前ふりの要素が無い分量で終わっている。
重くて長い「ライ麦」の場合は一つの物語を掘り下げてゆく言わば「質」の構成やけど、『ナイン・ストーリーズ』の場合は、切れ味の良いどちらかといえば同じ方向性を持った短編を九つ並列することで言わば「量」の構成になるわけやけど、単純に「量」だけでなくって、九つ重なることで生まれる効果というもんを実感した。
何となく表現しにくいけど、帰納的というか、こういう人も一杯いるからね。というか、ホールデン君だけの話じゃなくって、みんなの話ですよ。とかそういうこと。
今まで生きてきた中で、俺の無神経さから色んな人を傷つけたり迷惑をかけたりしたやろうけど、その事に対して謝れるものなら謝りたいなぁ。などとしみじみ思った。
とは言っても実際謝れるわけでもないので、そう思っておくだけやけど。
なんだか最後は小学生の読書感想文みたいになってもうた…

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