チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』

某氏に貸し出していたまま4、5年が経過していたはずだが、果たして彼女は読んでくれたのだろうか?
まぁ、当時は本を貸すという行為に意味があったので、読んでくれたのかそうでないかは今となっては大した問題ではない。
いずれにせよ数年ぶりにこの本が家に帰ってきたので、なんとなく読み始めるうちに引き込まれてしまった。
本の内容は、作者が最近買ったコンピューターに向かって、死までの数年を日記体裁で綴って行くというもの。
実にさまざまな物に対する彼の見方と立場が垣間見れる本である。
たとえば、「死」「書く事」「競馬」などについてだ。


amazon ASIN-4309203094この本は日記でもなく、エッセイでもない。
コンピューターで文章を書くことの意味とかそういうのは別にして、ここに書かれている文章の集積は当時なかったジャンルである「ブログ」に近いように思う。
この土偶StaticRouteなるブログを始めるにあたって、参考にしたり、影響を受けたりしたものはいくつかあるけど、久しぶりにこの本を読んで、明らかにこのブログは、この本に書かれた文章やテーマに色々な意味で大きな影響を受けているのを感じた。
日記でもないし、エッセイでもないし、小説でもない。読まれることを意識して日々思ったことを書き殴ってゆく事で、どこかにたどり着けないにしても、書いた本人には何かは得るものがある。
他人から見て、作者に人間的な魅力なり意義があるなら、他人から見た文章もそれらしいものになる。
この本もチャールズ・ブコウスキーの魅力と彼のものの見方が文章に乗り移っており、彼の小説とはまた違った文体がとても魅力的だ。
テーマの触り方とか、日記風な話の持って行き方とか、こういう風な感じで書きたいと思っていたけど、俺の書く文章が魅力的で意義のある物になれば、俺自身の存在もそういったものに近づくだろうと漠然と考えていたけど、結局そんな事のは虫のいい話だったのだと。
なんというか根本的な問題はゴロゴロと俺の下に横たわっているのだ。
職業的作家自身が文章を書く事についての「救い」的な側面に直接的に言及する事はそれほど多くないような気がする。
村上春樹はそのことについて不可能ではないが落とし穴も多い。的な言い方をしているし、アゴタ・クリストフは書くことで病は酷くなる。と言い切っている。
しかしチャールズ・ブコウスキーはこの本の中で文章を書くことで救われる。という事を前提にして話を進めているし、そのことを疑ってもいない。
彼の魅力は他人を信用せず耳を貸さず、自分の感覚と自分の論理だけで物を考え、それでいて魅力あふれると言うところによるのだろう。
彼のように考えられるようになれたらどれだけ人生楽になるだろう。と思うのは毎度のことやけど、それでもそう思うのは彼に対して失礼と言う物だ。
彼は「よく俺の文章を読んで救われましたなどと言うやつがいるが、俺は他人のために文章を書いているつもりは全く無いし、完全に自分のために文章を書いている。他人がどう思おうが、俺には関わりの無い話だ。」
と言うような意味の事をよく言う。
しかし、それでも、救いを求めてもがき苦しむ人を見ることは、ある種の孤独の感覚を緩和してくれるものだ。
なんというかこれを読んで、人生そんなに思い煩うことは無いのではないかと、なんとなく思った。

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