顔面セーフ文化圏

「人と違う自分」などとのたまう場合は、ほぼ例外なく「人より優れた自分」の意味を内包しかつ隠蔽しているのであって、しかるに、たいていの場合それが指している地平は、独自の方向や独自の量で持って築いたものではなく、「人より少しは先んずる」程度の地点でオリジナリティーのかけらすらないやんかこの野郎と他人に対しても自分に対しても思うことが多い。
考えてみれば、純粋な意味での「人と違う自分」なんてものはわざわざ宣言するまでも無く自明で当然のことであって、誰にとっても等しく前提条件となるレベルの話ではある。
だって自分は自分で他人は他人で、たいていの人は自分と他人を識別することができるんだもの。というわけである。
とはいっても、いくら個人同士が異なっているのが当たり前だとしても、その異なり方にも限度と言うものがあって、共有している部分のいうのもまたあるし、明らかにおかしい奴やら変わった奴は普通ではないと言う風にはみなされる。別の言い方で言うと、通常と見なされるのはかくかくからしかじかまでの範囲である。境界は含む(含まない)。と言うことになる。
普通などと言うもんは恒等式的には存在しないと以前に(たぶん)言い切ったわけやけど、不等式の解のような形式であれば容易に表現できるわけで、「俺ってぎりぎりセーフの普通やな」などと思っている輩は大抵アウトであると言えるし、セーフだとしても本当はアウトのいわば「顔面セーフ」の範疇であり「二度殺され」の可能性を背負い込むだけでご愁傷様と混乱気味の土偶は結局何の話か分らんままに今日の日記を終えるのであった。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

PAGE TOP