稲垣足穂『一千一秒物語』

稲垣足穂『一千一秒物語』を読了。
著者は1900年生まれで1977年没、1971年には社会現象となるほどにもなったらしい。
某上海氏に薦められて読むまで全く知らん人やったけど、上司の一人は全集を持ってて、そのまた上司も当たり前のように喋ってるし、父は桃山に住んでた奴でえらい高い本があるらしいでと言う。知らぬは俺ばかりで自分教養の薄っぺらさや偏りを自覚する。いや。時代のズレだと思っておこう。
で、この本は稲垣足穂の初期作品、1920年代のものを集めたものとなり、内容は、宇宙や飛行や月や星や天体などの語彙で構成される表現やら比喩やらが作り出すファンタジーとも御伽噺とも言い切れない不思議な無機的な世界を描いた『一千一秒物語 』を筆頭とする短編群と、その感覚と美意識で綴られた私小説的な『弥勒』、彼の性的傾向をまたその感覚と美意識で表した『A感覚とV感覚』となる。
全編に共通するのはストーリーらしいストーリーが全く無いこと。純粋な概念と描写が生み出す「印象」にすべてをかけているように取れた。
ぱっと読んだだけでも明らかに作者の非凡で稀有な芸術的な才能が見て取れる。ボリス・ヴィアン的な耽美を髣髴とさせるところがあるけど、そこまで有機的で感情的ではないし、何よりも求めているものがボリス・ヴィアン的な主人公と全く違うように思う。


amazon ASIN-410108601Xおそらく作者の美意識やら欲求の根源的な部分に、有機的で汚らしい俗なる物としての「自然」では無く、その対極にある無機的で聖なるものとしての天体或いは星や月を最善なものとする感覚があるように思われた。
そして彼の求めているのは、例えば肉体や欲望の放棄であるとかいったような、究極のダイエット系の方向にあるように思われる。
性欲であるとか食欲や睡眠欲であるとか自分の意思とは関係なく自分に内在されている嫌悪せざるを得ないものを放棄して、理性や感覚で美しいと思えるもののみをを自分の欲求としたいという感覚は良く分るし、『弥勒』の中での悲痛なまでの肉体や欲望に対しての対決と、個としての人間に秘められた善性と全体性の認識には胸を打つものがあった。
それでも、俺が自分の一部として持っている感覚と欲求「海に潜って魚を突き刺し、鱗を剥いで内臓を引きずり出し、体を切り刻んで生のまま食べる。」と言うのは、野蛮で有機的で、洗練とエレガントの対極にあると、稲垣足穂的には見做されるに違いない。
空や宇宙よりも海や山、星や月よりも虫や魚に対して愛着を持ってきた俺にとっては、彼の感覚と美意識と欲求は、「確かに綺麗やね」と思いつつもやはりちょっと感じ切れてないんやろうなぁという違和感がある。
今まで、自分の属性である、虫や花や海や山を好く「自然好きタイプ」の人間と、空や天体や星を好く傾向がある「宇宙好きタイプ」の人とがはっきり綺麗に分かれてるなぁと常々思っていたけど、俺にはあまり近しくなかった「宇宙好きタイプ」の人の感覚もなんとなく垣間見れたような気がする。
この稲垣足穂の描く世界は「宇宙好きタイプ」の人々にとっては卒倒失禁するくらいに綺麗な世界なのではないかと思った。

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