炬燵と火鉢を出して本を読む

炬燵と火鉢を出して部屋に据え付ける。
炬燵に這入り、火鉢で手を炙りながら本を読む。
昨日、遠まわしながらも明確な意図を持った様に聞こえるお誘いを気付かなかったふりをして黙殺した事を思い出し、自責と後悔の念を少し覚える。
一体自分は何故こんなに臆病になってしまったのだ?何をそんなに恐れているのだ?と思うも、そんな想念を振り払って本に没頭する。
市営の図書館と職場の図書館で本を借りて読みまくる、ここ一週間ほどの本の読み方は異常であるとしか思えない。
職場の方の図書館に本を帰す時に「読むの早いですね」と言われる。
しかしながら、自動貸出機で「状態エラー」になったその本をカウンターにいる彼女に貸し出し処理をしてもらってから、読んで返すまでにその本含めて三冊読んでいる。
もちろん彼女はそんなことは知らないが、一冊読むのに早いと言われる時間で三冊読んでいるわけで、そう言われて自分の本の読み方が本当に異常である事に気付く。
生活の合間に本を読むのではなく、本を読む合間に生活しているような感覚がする。
現実との乖離の感覚すら薄れてきている。
逃避行動としての読書に駆り立てられていたところで、この自分に逃げ出さなければならない程の何物かがあるとでも言うのだろうか?
火鉢で手を炙り、焼いた食パンを食べていると季節が一巡りしたことが実感させられる。
去年の冬、火鉢で手を炙っていた冬の頃から、自分は一体何を手に入れ、どれだけ進んだというのだ?
依然として一歩たりとも前に進めずどこへもたどり着けない自分に嘆息しつつも、前の冬には聴かなかった音楽を聴きながら、前の冬には読んでいなかった本を読み、その前の冬との差異で自分を納得させる。
丸一日かけて読みかけの本を最後まで一気に読んでしまう。
それでも読むべき本、読みたいと思う本はいくらでもあるのは喜ぶべきなのか?
或いは「べき論」で物事を考えるのがそもそも間違いなのか?
と今度は「そもそも論」に落ち込む冬の初めの土偶であった。

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