パウロ・コエーリョ 『悪魔とプリン嬢』

ブラジルのこえぴょんことパウロ・コエーリョの『悪魔とプリン嬢』を読了。
人は七日間で生まれ変われることができるというテーマに貫かれた、『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』と『ベロニカは死ぬことにした』に続く「そして七日目には…の三部作」の完結となるらしい。
中々有名なの本でかつ誉める人が多いにも拘らず、ふざけたタイトルとそのタイトルで特定の人物を連想させられることから今までなんとなく避けてきたものの、まぁ兎に角読んだ。
舞台は観光資源も産業も無く、若者は出て行き、狩と純朴な住民と自然を目当てにやって来る人々に外貨を頼らざるを得ないという感じの典型的な山あいの過疎の村。
そこに金塊を携えた旅人が訪れ、村に一軒あるホテルのバーで給仕を務める、自分ではそう望みながらも村を出てゆく勇気も金も才覚も無い町で一番若いプリン嬢に、村で殺人が起きれば村全体が豊かになれる金を村に提供しようと持ちかける。
そしてよく分らん良心やらダイレクトな欲望やら剥き出しの猜疑心やらで町全体が包まれる。
寓話的な舞台設定の大人向けの童話と言ったところか。


amazon ASIN-4048972022「神」の前提の無い世界の中で善と悪を位置づけるのは根拠が無い事であるのは自明であるとしても、依然として人間は善なり悪なりで物事を考えたくなるものである。
この本の中で悪魔つきの男が「神にすら地獄がある、すなわち人間に対して抱いている愛だ」とニーチェの言葉を引用しているけど、その言葉はその悪魔つきの男が述べなかった、本来ならその後に続く「神は死んだ。人間への同情のために、神は死んだ」を補うものである。
実際にこの村の信仰は地に落ちていることになっているし、すなわちそれはは神が死んだとも言える状態だということでもある。
「ひとりの人間の物語は全人類の物語」としてこの物語を語る著者は、当然一過疎の村の話ではなく人類全体の話としてこの物語を位置づけているのだろう。
神が死んだ状態で、神を根拠にしない前提で善悪とはどういった状態で定義付けられ、そして実践されるのか。と言う問題で無理やり見てみるなら、結局村の住民たちが悪に「堕ち」なかったのは神への信仰ではなく、現実的な罰と不具合への恐れと他人を信じるのが危険すぎるからでしかなかった。
というところは中々意義深いと思う。
しかしそう良いながらも、「欲望を感じないことはできないが、私は自分を抑えられるだろう」で象徴されるように、「すべては抑えるかどうかにかかっていた。そして、何を選ぶかに。」というところに集約されるように思うし、結局は社会の問題ではなく、個々の問題ということになる。
とまぁ、著者自身も説教臭くなるのを必死で抑え、何かを伝えたがっているのは良く分った。

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