私は「あなた」の為にこの文章を書いている

誰に向けて書くか、というのを考えながらブログを書くことが多い。私が何を考え、何を感じたのか、あるいは特定の誰かに対して伝えたいこと、分かって欲しいこと、そんなことをぼんやり思いながら文章をカタカタと打つのだ。

誰かに対して伝えたいことが何かしらあると言うからには、少なくとも無意識のうちにでもこうであって欲しいと願う未来の形を想像していることになる。しかし残念なことに、当然ながら未来は決して思ったとおりに展開するわけではない。

大抵の事や物や人や関係は失われてから大事なものであったことに気付き、目の前から崩れ去ってから守るべきものであったことに気付き、手の届かないところまで流れ去ってから掴んでおくべきであったことに気付くってことは、消費しつくされ使い古された凡庸なフレーズでしかない。

しかし、それをちゃんと理解していながらも、そういったことを何度も何度も繰り返し、そして、未だに慣れる事が出来ない。むしろそれは避けるべきものではなく、人が生きる事そのものの一部を構成しているようにすら思える。

「遅れてきた親友」と呼ぶ友人と話し込んだ時に「私(土偶)のブログの中に過去の自分が生きていた痕跡を探した」てな意味の事を聞いてとても激しく心が揺らいだ。

このブログを書くことで伝わらなかった事、繋ぎ止める事が出来なかったこと、失われたものが多くありつつも、それでもその一言だけで今まで書いてきた文章の全てが肯定された思いだ。

村上春樹が小説の中で「鼠」に小説を書くことについて「干からびて道端に転がって足の下で脆く崩れる蝉のために文章を書ければいい」というようなことを言わせていた。

私も干からびて道端に転がる蝉のような、誰にも気付かれることも無く、どこにも辿り着けず、それでも無かったわけではない、失われ崩れ去り流れ去った様々なもののためにもこのブログを書いてゆければいいと思う。そしてそのことが過去と未来に対するせめてもの祝福になればなによりの幸いだ。

私は、今「あなた」の為に文章を書いている。

そしてたぶんこれからも。

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