祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが嗣業なるイスラエル

年に一度のお祭り的業務で遅くから遅くまで働いた後に遊びに繰り出す。
化石燃料を燃やしながら、好きな音楽をかけながら延々と車を走らせ、延々と喋り続ける。
グレン・グールドのピアノを聴きながら、ズスケカルテットの弦楽四重奏を聴きながら、苦しみ自体に意味は全く無いものの、苦しみによって得られたものが後から振り返って見える事があるのはまた本当であると思う。
旧約聖書のヨブ記で神の試練によって子を奪われたヨブが、次に新しい子を得た事で前の子の問題が解決されたかのように見えるあたりの意味が、感情的に論理的にも全く理解できなかったのだが、それでも、最近なんとなくそのあたりの見通しが開けてきたような気がしてきた。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」で始まった試練は「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。 兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った。主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。 」で終わる。
そう言うわけで私も友人たちのために祈ることが出来れば。と思ったものの。
確信犯的無神論者である私には、祈る神がいないのに気付くのであった。

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