J.M. クッツェー 『少年時代』

amazon ASIN-4622046806J.M.クッツェー『少年時代』を読了。タイトルからもわかる通り、著者のクッツェーが自身の少年時代を振り返った自伝的な小説として書いたものとされている。
しかしながら、クッツェー自身が自分の小説を語る時に「記憶は捏造される」「あらゆる自伝は物語であり、書かれたものはすべて自伝なのです」などという事を強調している事もあり、この小説に書かれてる外的な出来事や内的な事物がクッツェー自身に実際起こったものであるとして読むような読み方はいただけないだろう。
この本を、捏造されて再構築された記憶をベースにした、自伝的な物語と捉えるのが正統的ではあるにしても、とうぜん彼の書いた小説の中では最も自伝的要素が強いものであるに違いない。
「少年時代」と言う言葉だけで、純真無垢で朗らかで明るく自然と仲間と家族に囲まれた、白のタンクトップに半ズボンと麦わら帽子を被った少年が出てくるノスタルジックな物語を思い浮かべそうになるけど、当然クッツェーはそんなものは書かない。
彼の書く「少年時代」はそんなものとは正反対の、アパルトヘイトの風が冷めやらぬ南アフリカの片田舎を舞台に展開される、内弁慶で内向的で横暴で傲慢で、ゆえに孤独である白人少年の自意識と身の程と暗い欲望のせめぎ合う内的なオディプス物語である。


「少年時代」という言葉自体が、少年や子供が美しいものであるという前提で、何故か失われた美しい物を連想させるものであるのが一般的な見方であるように思う。
しかしながら、クッツェーの描き出す「少年時代」は、子供が不完全で醜いと言う前提で、その後のクッツェーの物語に出てくる人物としての、現在の自分に観測される「歪み」がより抑制が無く、より純化された形で噴出する最初の時期で、最も見苦しい時期であると見なす事も出来る。
三つ子の魂百までというけど、人は歳を取って子供っぽい欲望や自意識を克服して成長するのではなく、歳を取ってそういう見苦しいものを上手く隠蔽して無い物として振舞う術を身につけているだけである。というのがクッツェーの感覚なのであろう。
物語らしい物語は無く、ひたすら未成熟な内向的で暗い欲望や衝動や自意識を中心に物事が記述されて何とも暗い気分になる。よっぽどクッツェーが好きでない人で無い限り、これはお勧めできないような気がする。
それでも、クッツェー好きとしては、彼の根本的な欲求であるとか事物認識のパターンが垣間見れてとても興味深い本であった。

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