内省的内向サバイバル

生きる中で起こるさまざまな出来事について、鬱要素にとらわれてしまうか躁要素にとらわれてしまうか、どちらに比重をおいて感じてしまうかは、もうほとんど先天的に決まっているのではないか?
欝と躁の要素が半々でも気分はどん底の人がいれば楽しそうな人もいるし、人前では躁気味でも、一人になると欝になる人や、人前で好んで欝状態になる人もおり、欝のあり方は色々である。
「なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気づかないのか」って言った人がいたけど、他人の誤差レベルの「あら」がとてつもなくくっきりとしたコントラストで見えるのに引き換え、自分に潜むバグを発見するのは至難の技であるし、ほおって置けばそのバグは自らのシステムに融合してしまい、どこからがバグかすらわからなくなる。
自分を正確に認識するのは激しく困難である。その試みの達成はほとんど絶望的にであるようにも思える。そして往々にして自らを正確に知ろうとする試みは、自らに対して意味と価値を減じさせる結果にもなる。
本気になって自分を追い詰めてゆけば逃げ道なんか絶対に見つかるはずはないし、自らを知るという事は自己批判の試みであると言っても良いかもしれない。


自己認識の難しさと苦しさとはまた別に、自己を認識するのと自己を改善して行くのが全く別の次元の現象である事実もなんともやりきれない。当然バグを見つければデバッグしたくなるけど、バグを取り除くのはバグを発見する以上の困難を伴うのだ。
自分のバグを発見しつつもそれを摘出する事が出来ずに存在を感じ続けるしかない。というのはある種の地獄であろう。
批判あるいは救いという形で自己批判を避ける方策を他人や外部に求めるのは簡単ではあるけど、結局自分に跳ね返ってくるのは確実であり、結局そのリバウンドは遅い早いの問題でしかなくなる。
交通事故で死ぬ人間が年間1万人いるのに引き換え、自殺で死ぬ人間が年間3万人であり、福井県小浜市の人口と同じ数の人が毎年自殺している計算になる。もう戦争並みの死者数である。
そう考えれば、色々な条件が重なってしまった人にとって日々死なずに生きてゆくことがどれだけ難しいかと思わざるを得ない。
毎日生きているのが、戦場を行き抜いているのと殆ど変わらないという視点から、生きているだけでありがたや。という見方も出てくるかもしれない。

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