『海辺のカフカ』村上春樹

2002年発刊。前の長編小説『スプートニクの恋人』から3年ほど後に発売された。初版本買ってるけどたぶんこれも一回しか読んでない。限りなく大雑把な言い方をすれば15歳の少年が家出をし、最後には家に帰ろうとする話。発刊当初はその前の年に映画の『千と千尋の神隠し』とか『ハリー・ポッターと賢者の石』が公開された事もあってか「少年が成長する話だ」とか、下火になりかけてはいたが「15歳の少年少女問題のひとつの見解」だ。とかいう扱われ方をしていた記憶がある。
一般的には賛否両論真っ二つに分かれてるようで、(まぁどんな本でもそうか…)「文学史に残る傑作だ!」って言う人が『ねじまき鳥クロニクル』より多く、この本について書いている人も非常に多い。という印象。けなす人に特徴的な傾向としては「大島さん」の衒学的な知識を振り回すかのような口調を批判しているパターンが多くいように見えた。確かに「大島さん」の喋りが心地良く聞こえるかそうでないかでこの本の印象は大きく変わるやろうなとは思うけど、単語の意味が分からなければ調べればいいし、そういう話し方に違和感を感じるのはどちらかと言うと聞き手の方の問題もあるのではないか?わからんかったらわからんままでええやん。第一本人は真面目で必死に見えるし。と個人的には思う。


amazon ASIN-4103534133amazon ASIN-4103534141この本が発売される段階で村上春樹は発売元の新潮社と相談して「宣伝をしていくときに、本のあらすじや内容がわかる方法はやめたい」と言ってチラシには「猫の話らしい。」「15歳の話らしい。」「四国の話らしい。」「図書館の話らしい。」「中野区の話らしい。」と言った大雑把過ぎる事しか書かないという販売戦略を取った。なんつー傲慢な…ハリウッド映画でもそこまでやらんぞ…と今思えばそんな感じがするけど、出す前から村上春樹ブランドで爆発的に売れるのはわかってたし、固定読者はこれ以上ないくらいにがっちり掴んでるし、実際に売れたし、まぁ、それでも売れる人やししょうがない。良い悪い以前に事実やしね。ようは村上春樹は読者にこの本を先入観なしに読んで貰いたがっていた。ということが言いたかった。
さらに「読者から感想や質問を送ってもらってそれに答えるホームページを作りたい。マスコミの人もよければそこに入ってこれるようなそんなイメージで」ということも村上春樹は希望したらしい。(そしてそのやり取りはその後『少年カフカ』と言う形で発売されるがこちらは未読。ぜひとも読もうと思う。)これに関してはドラゴンが同じようなことをやっていたけど、そういう一つの問題に対して語り合う社会派の方向とはまたちょっと違って、『海辺のカフカ』を媒体とした著者と読者のあくまでも個人としてのやり取りになる。
この二つの方法は宣伝効果という意味でも、後に『少年カフカ』が発売されると言う形でも商業的にも成功したし、村上春樹にとっても得るものがあったのだろう。
それでも、こういう販売戦略とかアフターサポート?をすることができる作家はあんまりいないやろうと思う。前提として出版社に対して商売として儲かると思わせるだけの必要があるし、出版社に言うこと聞かせるだけの文壇というか社会的な地位も必要やろうし、またそれを裏付ける圧倒的な人気も必要やろう。まぁ、それを可能にしたのは言うまでもまでもなく村上春樹の実力と努力の結果なんやろうけど。
「いったん書き上げれば本は著者の手を離れて一人歩きする」と言う意味のことを村上春樹はよく言うけど、こういう販売戦略とアフターサポート?からもこの本を書いた村上春樹本人も、一人歩きするはずの自分が書いた筈の本を図りかねて、読者の先入観なしの率直な意見を聞いてみたいと言うところがあったんやと思う。またそれが村上春樹にとってコミットメントのやりかたの一つなんやろうけど。
上のようなことから村上春樹のこの本に対するスタンスだけでなく、意気込みとか、気合の入りようもが伝わってくるような気がする。村上春樹も書き上げた自分の本を読んでみて「これは…」と思うところがあったんやろうね。まぁ一読者である俺も実際そう思ったわけやけど。
で、この本を途中まで読んでて、俺は何らかの結論とか何らかの見解を読み取ろうとする意図を完全に放棄した。書いた本人が目指してないところをわざわざ目指すこともないし、第一この本の言葉を借りればあまりにも「メタフィジック」やった。それでも、村上春樹が明らかに前までの作品と変わったのは分かったし、この本は彼にとっての偉大な到達点の一つや。ということも分かった。その辺のところについて書いてみる。
まず驚いたというか目を引いたのがこの本の中には夏目漱石とか井伏鱒二とか源氏物語とか雨月物語の古い古典と呼ばれる日本文学についての言及や引用が多数見られること。今まで村上春樹はそういう種類の文学とは違う枠組みで小説を書き文章を書こうとしてきたはず。いったん逃げ出したり捨てようとした筈の物を積極的に取り入れてそれを消化しようとする姿勢は、それらの枠組みから外れようとしていた村上春樹が、そのつながりにある人間として自分を、少なくともこの本を意識し始めたように感じられた。それは多分今まで自分の中で抱えてきた問題なり苦しみが「個別的」であるにしろ十分「日本的」であり、古来からのテーマにつながるものであるという捉えるようになったためではないだろうか。
次に今までに村上春樹が絶対に描くことはなかったようなタイプのキャラクターが準主役級の扱いで登場すること。具体的にいえば猫と話のできる知的障害者とされる「ナカタさん」とドラゴンズファンのトラック運転手「星野さん」がそうなる。これはよく言われることなので、あまり他の人が言っていない部分に限って述べると、「ナカタさん」は一見猫と話ができるという部分で村上春樹的なキャラクターに見えるけど決してそうではない。実際にすぐに猫と話ができなくなるし、彼は抽象的な概念を決して理解しない。これは言い換えると今までの比喩とウィットと抽象概念を駆使した村上春樹的な文法や語り口がまったく通用しないキャラクターとなるし、彼の目を通して世界を見、彼の口を通して世界を語る事は、村上春樹にとって今までのスタイルの枠を出た所での試みであったように思う。そして一介のトラック運転手「星野さん」が最終的に物語の収束に大きな役目を担っていた。という事。そして彼が「ナカタさん」の力を借りず、自分だけで「大公トリオ」の良さを理解し、そしてベートーヴェンに同情してゆく様が描かれるけど、それは村上春樹自身が「星野さん」にその「大公トリオ」の良さを説明しているかのような印象を与えた。今まで村上春樹が自分の世界のにある良いと思われる事(たとえば百万ドルトリオの「大公トリオ」)を外の世界の人(たとえば星野さん)に対して理解してもらおうと熱心に説明するような姿勢は無かったし、自分の世界(田村カフカと佐伯さん)の収束にほかの世界の人(星野さん)の手を借りることはなかったのではないかと思う。そのあたりも村上春樹自身の大きな変化ではないかと思った。
先にこの本は日本文学に連なるものと意識されていると述べたけど「田村カフカ」についての一番の直接的な大きなテーマはギリシャ悲劇、もっと細かく言えば『オイディプス王』と共通することは説明するまでも無く明らかやと思う。「オイディプスコンプレックス」を通して人間の自立を描くとかのありがちな解釈は度外視して、「田村カフカ」が明らかに自分が殺したのではないのに、自分が殺したのではないかと苦悩する様は『カラマーゾフの兄弟』の次男である「イワン」と驚くほど似ているように俺には思えた。古代ギリシャに書かれた古典中の古典とテーマを同じくし、ロシア文学の古典中の古典と同じように主人公が苦悩をするということは、「日本的」である枠を超え、人間としての普遍的なテーマとなるものを扱ったことになる。それがちゃんと扱いきれているかどうかはまた別の問題やけど、村上春樹はとんでもない大風呂敷を広げてみせたなという印象を持った。
結局最後に「田村カフカ」が「森の奥」で」「二人連れの兵隊」に会うことで物語が何らかの収束を見せるわけやけど、「大島さん」ではなくその兄のサーファーである「サダさん」が兵隊に会った事があるという事は村上春樹的な一つの教訓を示しているのだと思う。それでもその「サダさん」と「田中カフカ」の「ことばで説明しても正しく伝わらないものは、まったく説明しないのがいちばんいい」と言う言葉は村上春樹の小説を書く大きな意味での理由であり、小説を書く際の基本的なスタンスであると読み取った。まぁ、逃げと言えば逃げと言えない事も無いとは思うけど。
最後に俺の個人的で感情的な部分で気にいらん所と気にいった所を一つずつ述べると、「大公トリオ」について百万ドルトリオのハイフェッツ、フォイヤマン、ルービンシュタインの三人の演奏が最高とされているけど、個人的にはルービンシュタイン自体は決してベートーヴェン弾きではないと思う。彼はどっちかというとショパン弾きやし、ショパンとベートーヴェンの間にはかなりの隔たりがあると思う。そもそもベートーヴェンは「華麗」に弾いてはいけないのだ。もっと泥臭くイモっぽく汗臭く弾くべきだ。と個人的には思うしここだけは譲れない。俺の中で大公トリオを弾くに最も相応しい三人はピアノがアルトゥール・シュナーベル、ヴァイオリンがイツァーク・パールマン、そしてチェロがスコット・ラファロもしくは、いかりや長助のどちらかだ。(ゴジラ対ウルトラマン的なノリで)
最後にいちばん気に入ったところ。「大島さん」がアリストテレスを引用して言った言葉「人はその欠点によってではなく、その美質によって大きな悲劇の中にひきずりこまれいく。」この文章にやられました。

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