汝裁く無かれ

他人のいう事と自分の言う事の妥協点が存在しない場合、どちらか一方だけが正しく、どちらか一方が間違っていると判断するのは現実的には間違いである。
他人の言う事と自分の言う事のどちらもが同様に正しいという事は大いにありうる。というか世の中そんな事ばかりである。
しかしながらそういった妥協点を探す試みの際の基準として「正義」や「~べき」を持ち出してくると大抵上手く行かない事が多い。その「正義」と「~べき」は共通の前提になりにくく、立場、年齢、性別、などでいくらでも変化してくる。厳密に言えば各々個人が各々自分の正義を持っているわけであり、正義も~べきも相対的である域を超える事は出来ないのである。
一方、人間である限り「人間的な欲求」の誤差は思ってるほど酷くない。少なくとも大抵の事は「まぁ気持ちは理解できる」以上のレベルに収まってしまうだろう。そこを基準にすれば意外と妥協点が見つかる。
例えば、Aがaしたい場合、「正義によってAはaすべきでない」という言い方より、「Aがaする事はBのbという欲求に反するから止めてくれ」といういい方の方が遥かにわかりやすいしカドも立たないのである。
「欲求Aから行動Bを正義Cに因って抑制する」と「欲求Aから行動BやDを行うのを抑制する正義xは存在しない」の両者をまったく別のものとするのは「正義」を基準にした場合と「行動」を基準にした場合である。しかし「欲求」を根拠に二つを眺めると「欲求A」の存在により両者は同一となる。
日常的に物事は「行動」と「正義」のレベルで見られることが多い。しかしながら、欲求のレベルで人を見ると、同一とされるワクが広くなり、まぁ人間対して変わらんやね。って感じで色々な事が許せるようになるのではないだろうか。

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