『アフターダーク』村上春樹

俺が勝手にやっていた「中期以降の村上春樹を読み直そう企画」もこの本『アフターダーク』で終了。この本は2004年発刊。これも初版を買ってる。一回読んで「駄目だこりゃ!」という感想を持った。
話としては午後11時56分から午前6時52分までの限られた時間の複数の人間の話が映像的に綴られて行くような感じ。
この本に関してはやたらとボロクソにいうやつが目に付くけど、全体に共通していることは村上春樹が新しく変わろうとしているという事。
褒める人は変わり方が良いと言い、けなす人はその変わり方が気に食わないようだ。


amazon ASIN-4062125366確かに村上春樹がこの本で明らかに文体を変えている事は俺もわかった。「僕」が一人称として「僕」を語るのではなく、「僕」が「誰か」について語る三人称の視点でもなく、「カメラ」や「介入できない傍観者」として「浅井エリ」の部屋や心象風景を、「デニーズ」や「アルファヴィル」での出来事を描写している。この描写で村上春樹の意図するところはもちろん「映像的」ということもあるやろうけど、どちらかというと「映像的」になるのは結果としてそうなったというような気がする。一人称で表現すれば「僕」の感性のフィルタを通った世界が表現されてしまうことになるし、三人称で表現するとしても語り手の感性なり捉え方のフィルタがかかってしまう。一人称や三人称の視点ではどうしても読者は誰かの目を通した世界を見ることになる。村上春樹は誰かの目を通してではなく、読者自身の目で見ているような感覚を抱かせるために、純粋な何の感情も考えも持たない傍観者の視点として「架空のカメラ」から見た描写という形をとり、表現者の感情や捕え方が表に出てこない効果を狙って体言止めが多用されているように感じた。
村上春樹は作者や登場人物の視点ではなく、読者の視点で物語を見て欲しいという所を意図してこういう文体にしたのではないだろうか?その結果として「映像的」になったのではないかと。
この小説では誰も死なず、誰もセックスをしない。誰かが述べていたように物語の終わりは確かに美しいし、良い人は救われ、悪い人は罰せられる予感に満ちている。つまりは物語り全体が希望に満ちている。これは村上春樹自身がデビュー当初に目指していた小説の形ではあるけど、ヤマもないしオチもないし物語としては限りなく凡庸でつまらん。
その凡庸でつまらん物語を読者の視点で見せることにどういう意味があるのかは実際俺にはさっぱりわからん。「おいお前らこいつらとコミットしろよ」とでも言っているんやろうか?
この本の文体とか表現とか描写が実験的であることはわかった。とにかく村上春樹は何かの実験をしてるんやろう。言うならば読者は実験台にされているのだ。それでも読ませどころを何個か用意しているところが村上春樹の実力であるのは間違いない。
この本での実験が村上春樹にとって成功なのか失敗なのかはわからんけど、村上春樹が次、あるいは次の次でどんな作品を書くのか期待したい。そういう期待を抱かせる本ではある。この本を読んで「もう村上春樹読むの止めた」という気はなくなった。次の作品でごろっと変わってしまって戸惑わないために緩衝材の役割をこの本が果たすことになるのではないかと思っている。

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