「非日常」を送る火

一昨日久しぶりちゃんと五山の送り火を見た。五山と言っても「大」と「舟形」の二山だけやけど。
「大文字」は遠目ながらもくっきり見えたけど、「舟形」に関しては殆ど麓から見たので全体像が見えず「壮大な山火事」のごとき趣であった。
「送り火」はお盆と言う事で現世に里帰りしていた「ご先祖の霊」をお盆終了に伴って「あの世」に送り返すというコンセプトやけど、テレビで山折哲雄が京都盆地の地図に五山の絵を描いて、京都中心部から見て山の向こうが「あの世」で山のこちら側が「この世」です。と誇らしげに言っていた。
彼の言い分からすると舟形を裏山とする我が家はおもっきり「あの世とこの世の狭間」あるいは「どちらかと言うとあの世」と言う事になってしまうやんか。とちょっとムッとした。
今まで送り火をきっちり見ようと思って見に行く事は殆ど無く、海に遊びに行った帰りに殆ど偶然に目に付く事が多かったけど、それでもやっぱりこれを見ると夏が終わるなぁ。とうら寂しい感覚はある。
お盆が終わる事に伴って死者であるご先祖が黄泉の国に帰るという事は、お盆と言う特殊な状態が通常の状態に戻る事でもある。ある意味で非日常から日常へのシフトとも言える。
そしてこの時期になるとお盆だけでなく、一大イベントである夏やとか夏休みであるとかいった非日常も終わってしまうわけで、五山の送り火を目にして感じるうら寂しさはその辺りも起因しているのかもしれない。


夏と言う非日常が楽しければ楽しかったほど、過ぎる夏を寂しく感じ、待ち構えている日常をわずらわしく思うのである。
しかしながら、非日常がずっと続けばそれが日常になる。などという言い方をしなくても、非日常は日常からある程度の断絶があるからこそ非日常としての価値が生まれるのだ。
この世の中で日常だけを生きるのは何とも辛い物であるがゆえに人は非日常を求めるのやろうけど、しかしながら実際に非日常だけで人生を送ることは殆ど不可能であり、実際そう出来たところで現実を生きているとは言えない。
なんというかこういった迎え火で迎えて送り火で送るといった感じの、何らかの象徴的なイベントを境に日常と非日常を行ったり来たり出来るようなバランス感覚は、精神衛生上とても良いような気がする。
考えてみれば、「海に遊びに行った帰りにラーメンを食べる」と言うわれわれが良く行う行動も、非日常から日常に戻るある意味で象徴的なイベントとしての意味合いを含んでいるような気もしてきた。
そういうわけで、非日常も日常もどちらも大事であるし、その切り替えってのはとても大事なものなのだなぁと思った、足の火傷のせいで古い友人からの「陶器でも焼きに行かへん?」という誘いをパスせざるを得ず、激しく残念で激しく暑い土曜日であった。

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