熊野 純彦 『カント―世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス』

amazon ASIN-414009303Xもうすっかりお気に入りのシリーズ・哲学のエッセンスの一つ、『カント―世界の限界を経験することは可能か』を読んだ。
この本はカントの『純粋理性批判』を主とした「アンチノミー論」を主題にして展開されている。
1章で世界の二律背反のあり方を「物自体」と「現象」の区別(超越論的観念論と呼ぶらしい)で吸収する話を、2章で神を存在も非存在も証明できないがゆえに世界の外にいるとしか考えられないという話に展開させ、さらに3章で、人間の精神が不可能性と矛盾性へと近づいてゆく事、つまりは神的なものへの接近の欲求が理性の要請であることを、崇高的や叡知的と言った単語で説明される様は中々読み応えがあった。


この本では主に世界の二律背反を根拠に、精神の要請と目指す先が、絶対に辿りつけない世界の外にある神の存在であることが書いてあったわけやけど、それは、そのカントの主張がとても綿密な論理と理性の導きで成り立っていることの説明でもあった。
我々は過程が大事やと常々言いながら、やっぱりどうしても結果を求める癖がついているけれど、この本を読んで結論だけじゃなくって、それが導かれる過程がとても大事だと言うことを改めて思った。
カントと言えば遥か昔にキノコの某先生の授業で『人倫の形而上学の基礎付け』を講読していたのだが、その時に先生が「カントっていうのはカント先生って呼ばなきゃいけない位のエラい人で、自分の書いた本の中で”人間は道徳的な選択肢と非道徳的な選択肢があれば道徳的な方を選ぶ傾向がある”って自分に照らし合わせて書いちゃうぐらいに良い人でした。」って意味の事を言ってて「そりゃ確かにカント先生や(笑)」と笑ってたのを覚えている。
そういうわけもあり、私の中でカントはカント先生たる立派な道徳家のイメージがあって、有名な一節である「汝の意志の格律がつねに普遍的立法の原理として妥当しえるように行為せよ」ってな定言命法がカント先生のイメージでもあった。
道徳的である事や神的な存在への憧れが、宗教的な根拠や前提で無く理性的な帰結と要請から導かれ得るものであれば、理性と哲学の存在する意味は更に増すだろう。
人間としてとても道徳的で理性的であったカントのあり方が、宗教ではなく理性によるものからだと考えると、なんとも力づけられる話ではないか。
そして、宗教者が登り行く道を理性で登ることが可能だと考えるのは、ある種の人にとってとても救いになるだろうと思う。

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