高橋祥友『群発自殺―流行を防ぎ、模倣を止める』/林公一『擬態うつ病』/情報化した文学は恐ろしい。

最近読んだ新書の中に、高橋祥友『群発自殺―流行を防ぎ、模倣を止める』と林公一『擬態うつ病』なるものがある。

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そもそももこの2冊を読もうと思ったのは、『群発自殺』が『若きウェルテルの悩み』の創作時期あたりのゲーテの人生をテーマにした、何気に面白かった映画「ゲーテの恋」を見て、18世紀の発表当時に『若きウェルテルの悩み』の恋に敗れ自殺する主人公を模倣した青年の自殺が多発した「ウェルテル効果」に関する本が読みたくなったからで、
『擬態うつ病』は古本屋で見かけた時にこの著者がネット上で「まさかとは思いますが、この「~」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。」のフレーズで有名な、Dr林やないですかーということで手に取ったのだった。

この『擬態うつ病』は本来なら薬が劇的に効く脳の器質的な問題であるはずの「うつ病」が診断名としてソフトに聞こえたり世間に浸透しすることで、うつ病ではないはずの「単なる甘え」から「適応障害」「統合失調症」に至る人までが「うつ病」と診断されることで、まったく薬が効かないだけでなく、うつ病の人も偏見に晒されてちゃんとした治療を受けられなくなる可能性を示唆したものであった。

この本は2001年に出版されたもので、この本の内容は当時の状況を考え合わせた起こりつつある事としてのほとんど未来予測に近いような話であったけど、2014年の現段階でまさにDr林の言う通りの状況になっていてびっくりですよー

私はこのDr林の「Dr林のこころと脳の相談室」が更新されるたびにチェックしてみているほどなのだが、今見てみたら403エラーで表示されなかった。

まままさかとは思いますが、「Dr林のこころと脳の相談室」とは私の想像上の存在にすぎなかったのか!?

うん。インターネット上に公開されたどこぞのwebサーバーにあるサイトを現実の存在ととらえるか想像上の存在とらえるかってのはなかなか難しい問題ですなー

でもう一冊の『群発自殺』の内容は『群発自殺―流行を防ぎ、模倣を止める』のタイトルの通り、自殺者の報道やメディアで扱われた自殺が他の自殺を誘発したり、自殺の名所と呼ばれる場所で多くの自殺が行われるといったものや、特定の宗教や思想や家族集団内で行われる集団自殺などの、時間的にも場所的にも近接した複数の自殺について具体例を挙げたり論じたりして、メディアの報道の姿勢や我々の対処の仕方でそういった「群発自殺」を防ごうというものであった。
1998年に出版されたちょっと古い本なので「岡田有希子」とか「高島平団地」とか懐かしいフレーズも満載だ。

そういえば、なぜかこの本では全く言及されずスルーされている1993年に出版された『完全自殺マニュアル』が内容もさることながら本を参考に、あるいは本を携えて自殺した若者を何人も生み出したことでマスコミで大きく取り上げられて有害図書指定されたことがあった。

そんな『完全自殺マニュアル』を巡る二年間の騒動と読者からの手紙をまとめた『ぼくたちの完全自殺マニュアル』を読めば、否定的なことを言う人のほとんどがそもそも本を読んでない人ばかりで、真面目に読んだ人の殆どは『完全自殺マニュアル』を肯定的に捉えており「逆にいつでも死ねるのだと思うともうちょっと生きようという気になった」という人がとても多いのが良くわかる。

以前硫化水素とか練炭とかによる自殺がやたらと連鎖して報道されていた時期があったけど、私は何かしらの自殺の流行に乗った人は、たまたま手近な手段としてそれを選択しただけで、流行が無くても多かれ早かれ他の手段で実行しただけなんじゃないかと思っていた。

しかしこの『群発自殺』 を読んでその見方は結構変わった。群発自殺の頻発した後にも自殺が減らないデータを見れば、流行によって引き起こされる「群発自殺」が自殺予備軍を後押ししたのではなく、本来自殺することの無かった人を自殺させたことがかなりの確実性を持って推測できるし、本来なら症状が回復すればちゃんと生きていける、うつ病や統合失調症や洗脳状態の人の群発自殺は適切な対処で防ぐことができるのだと言うことが良くわかった。

しかし一方で、この本は『群発自殺』に関する本であるから当然と言えば当然なのかもしれないが、自殺を引き起こす精神的な疾患については予備知識としては述べられていても、自殺そのものを直接的に考えるという方向性は全く無い。

アルベール・カミュは『シーシューポスの神話』の中で

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。
自殺ということだ。
人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。
それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。
そんなものは遊戯であり、先ずこの根本問題に答えなければならない。

と言いっぱなしで「お前も答えてないやないかい~」と突っ込み待ちをしているわけであるけど、彼はそんな渾身のボケを放ちながらもそれでも一方で「自殺」の問題を「人生が生きるに値するか否か」という哲学的な問いに言い換えたわけだ。

この「自殺」に関する問題、カミュ風に言い換えて「人生が生きるに値するか否か」を実に様々な人が問い続けてきたわけであるけど、どんな本を読もうがどんな人に聞こうが、結局は自分の問題については語ることができても他人の問題に関しては「人それぞれなので自分で考える」ということしか言っていないように思う。
考えてみれば、それは答えとして余りにもあほらしいし、それはそもそも答えなのか?というレベルですな。

名著として君臨している、フランクルの『夜と霧』でさえも極端にムリヤリ要約してかいつまんで言ってしまえば、何をもって人が極限状態で生きがいとなる生きる力を得られるかは「人による」となるし、じゃぁそれはどうやって見つければいいのかと言えば、「自分で考えろ」となってしまう。

この本を読む前に読んだ「如何に情報が人を蝕むか」「情報ではなく文学が革命を起こすのだ」といった内容の佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』にとても感動したのだが、それにそって言えば、「自殺についての問題」つまり「人生が生きるに値するか否か」は「情報」ではなく「文学」で答えるべきなのだ。

『夜と霧』や『シーシューポスの神話』を読んで心を打たれるのは、それが情報として書かれたのではなく、「文学」として書かれたからだし、読むほうもそれを単なる情報としてではなく、文学として読むからなのである。

フランクルやカミュといった心理学者だとか文学者とか哲学者の例を出すまでも無く、
たとえば、男性諸君なら誰でもが経験するであろう、なぜかプリプリと怒っている女性に当惑してオロオロしながら「貴方はなぜ怒っているのか?」と恐々問うた時の答えが「自分の胸に手を当てて考えなさい!」であることが多く、さらにびくびくしながら発せられる「どうすればその怒りを静めることが出来るのか?」に対する答えの殆どが「そんなことは自分で考えなさいよ!ふんっ!」とどちらも「人生が生きるに値するか否か」と全く同じ回答になることを考えてみれば、まさに人生で人が本当に問い求められているのは「情報」ではなく「文学」であるというのが良く判りますな。

っと、話が逸れそうになったので元に戻すと、群発自殺は本来「人生が生きるに値するか否か」といった「文学」の問題の範疇にあったものが「情報」として伝わることで本来その文学の影響下に無かった人を巻き込んで「群発自殺」を引き起こしてしまうと見ることが出来るわけであるし、「擬態うつ病」も「うつ病」なる状況が情報として広まることで、「うつ病」ではない別の文学的な問題を生きていた人を、全く別の架空のストーリーに引き入れてしまうことでさまざまな問題が起こってくると言い換えることができるわけである。

元が革命を引き起こすほどのエネルギーを秘めた「文学」であるだけにそれを情報として扱う場合の破壊力と危険性もとてつもないということがよーくわかったような気がする。

いやいや文学と情報って恐ろしいですねーと文学部出身で情報産業に関わる私が自分の事を棚に上げて思ったのであった。

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