黒澤明 「羅生門」(1950/日)

amazon ASIN-B00006AUUZ黒澤明の『羅生門』を観た。世界に日本映画と黒澤明の存在を知らしめる契機になった、世界的にも有名な作品ということである。
内容は芥川龍之介の『羅生門』と『藪の中』をミックスしたようなもので、一人の盗賊によるある検非違使に対する殺人事件に関しての、容疑者の盗賊、被害者の妻、被害者の検非違使、目撃者のそれぞれの証言としての回想シーンがメインになっている。
しかしながら、その証言がまったく違っているというところがこの映画のキモであり意義であるのだろう。


死んだ検非違使が死にながらもイタコに乗り移って証言する状況とイタコの演技がなんとなくツボであったけど、事件に直接的に関係する、容疑者、被害者、被害者の妻の三人の主張するところが、被害者を殺したのが私であるというのもツボであった。
しかしながらこの映画の一番のツボは、どの証言でもぶっ飛んだ凶女として描かれ、真実(であるらしい)として語られる目撃者の証言の中でこそ一番の狂いっぷりを見せていた京マチ子の怖さであろうか。
この時代では特に女性は現実的に非力であったにもかかわらず、女性が持つ超現実的な力と怖さが圧倒的に他を圧していて「ひ~怖いよ~」である。そういえばこの人は「雨月物語」でもたいがい怖かった。
でもまぁ、この映画のように一つの物事の見方が人によってまったく違うことも良くあるし、意図的に嘘をつくことも無意識に嘘をつくことも嘘を本当だと信じ込んでいる事も良くある話である。
人間の語る事なんかこれくらいええかげんなもんやし、自分の見たいように物事を見て、自分の信じたいように物事を信じるものであるし、往々にして本当の真実よりも、自分にとっての真実が大事にされるわけである。
「真実」と名のつくものが相対的なものでしかないという事は、我々が自分の形に世界を捻じ曲げていることやけど、それでも自己を省みる段階では本当の真実に近づこうとする視点は大事であろう。
自分を曲げるのが耐え難い人は世界を曲げ、世界を曲げるのを躊躇する人は自分を曲げるのを厭わない。
ってなんか全然映画と関係ない話になって来たけど、「マチ子 vs 節子」の頂上決戦を観てみたいと思った。

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