ミロス・フォアマン 「カッコーの巣の上で」(1975/米)

amazon ASIN-B0007IOJSYチェコから亡命したミロス・フォアマンの1975年の映画である「カッコーの巣の上で」を観た。観てから知ったのだが、私の好きな「アマデウス」もこの監督が撮ったらしい。
主演はシャイニングを観てからというもの、名前を聞くだけで笑いがこみ上げてきそうなジャック・ニコルソン。さらには舞台が精神病院の隔離病棟と言う事でそれだけでワクワクである。
強制労働から逃れるために精神障害を装い、精神病院の閉鎖病棟に送られたエネルギー溢れる主人公。彼は自分の思うまま感じるままをストレートに表現して振る舞い、病院内で他の入院患者を巻き込んだ騒動を引き起こす。
主人公を中心とした、他の入院患者との係わり合いと婦長を代表とする病院側との対立を軸にして物語りは展開する。
同じような舞台の映画に「十七歳のカルテ」があったけど、これは脆くて繊細な女の子ばかりが出てきて泣きの入る、絵面的にも雰囲気的にもちょっと耽美っぽいのが入ってるけど、この「カッコー」はマッチョで男臭くてしかも弱いというなんとも言いがたい雰囲気である。
夜の11時半くらいから見始めてしまったものの、最初から最後まで目を離す隙も無く凝視していた位に面白い映画であった。
これは久しぶりに自信を持ってお勧めできる映画であろう。


今時「精神異常」と「普通」を分けるのはほんのちょっとした違いでしかないというのは結構一般的な見方であろうと思う。
精神病院で入院治療を受けている人と比べた場合、明らかにこちらのほうが異常にしか見えないという言動で対人関係を取ろうとする人などは誰の周りにも数人はいるであろうし、病気と判定するかどうかは日常生活に支障が出るか出ないか位を基準にするしかないらしい。
そういうわけで、精神病院モノというかそういうジャンルの物語では大抵入院患者と病院のスタッフのどちらが異常だか分からないといったような定番的な表現が確立しているわけやけど、この物語は一見そういう感じではなかった。物語の開始直後、患者は患者、スタッフはスタッフと実に分かりやすい。
しかしながら彼らの精神異常が何かしらの弱さとして表現されるつれ、普通の人間が感じないことを感じて、耐えられることに耐えられないだけの、ただとても弱いだけの人間に見えてくるのがほっこりである。
最近、傾向的には同じような場所の雰囲気を経験したので、その場の空気はなんとなく分かるし、静かに淡々とした時が流れるそんな場所がとても居心地のいい場所であるのも良く分かる。
強さとエネルギーと行動力の塊のようなジャック・ニコルソンの演技がとても良かった。そして彼がトリックスターとして他の患者たちに影響を及ぼしてゆくところもとても自然に見えた。バスケのシーン、釣りのシーン、写っていないテレビで騒ぐシーンなど彼らが一体となってはしゃぐところがとても大好きである。
しかし、どこかで指摘されていたように、彼のようなひたすら強い個性で突き進む人間も他人からはある種の強さとして見えるような精神障害のタイプであるという感じはする。明らかに日常生活に支障も出てるしね。
そう考えると、彼のような人間は本人の幸せはともかくとして周りに影響だけを与えるタイプのように思えてなんだか微妙である。あの有名(らしい)ラストシーンのこともあるしね。
それから、主人公と対立する、静かで規則正しい治療の生活を守らせようとする婦長はネット上では嫌な女の代表やとか権力と体制の権化とかいう意見が多かったけど、哲学で救いを得られればと願う私としてはちょっとやりすぎにしろ彼女の立場と見方に賛成しないでもない。
更にはそれだけでなく、帰り際に微笑んで主人公に手を振ったり、ラスト間際で帰ってきた患者に笑いかけるシーンなど、ちょっとしたしぐさとか表情にとても深い慈愛のようなものを見て、とても良い意味での人間的魅力を感じたのだがどうだろう。

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