アリョーシャの微笑み

帰って『カラ兄』を読む。現在4部の半ばも過ぎ。アリョーシャは既に僧院を出ており、ミーチャの裁判が始まったところぐらいである。
アリョーシャが色々なものに対して微笑む記述が出てくる度に、なんとも胸が締め付けられる。私も色々なものに対して微笑みを向けたいと読むたびに思う。
自転車に乗って切る風に、雨降りの空に、寿命を全うして壊れたモニタに、そして何よりも私と関わりのある全ての人に対して。
アリョーシャとコーリャが恥ずかしがりながら語り合うシーンがたまらなく好きだ。読むたびに感動を抑えられない。そしてアリョーシャがコーリャに言ったように「不幸な人生を全体としては祝福する」ということが本当に可能なのだろうか。と読むたびに思う。
おそらく、祝福することと幸不幸の間には関わりが無いということなのだろう。幸福であることが勝利でも善でも無いのならば、不幸であることは罪でも悪でも敗北でも無い筈だ。
人生を祝福し、人生に対して微笑むことが出来るのが、どれだけ素晴らしいことかと思った。
しかし、読むたびに思うということは、逆から言えば、読んだ時にしか思わないということでもある。
『カラ兄』を繰り返し読むという事はこう言う事でもあるのだろう。
かくのごとく醜い私も、少なくとも、この一瞬でもアリョーシャと同じ気持ちになったのだ。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

PAGE TOP