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2010年06月08日




●「ジャック・マイヨール」と「自殺」と「あちら側」

amazon ASIN:4062061473 amazon ASIN:4062119587 最近「死」についての本をやたらと読んでいると以前のエントリで書いたが、私にとってもっとも不可解な「死」、しかも「自殺」がジャック・マイヨールの首吊り自殺である。

ジャック・マイヨールと言えば一般的にはリュック・ベッソンの映画「グラン・ブルー」のモデルとなった人して有名であろうか。
人類として素潜りで初めて100メートルを超えた人物であり、イルカや鯨に見られる大深度で血液が脳や心臓や肺に集中して生体を維持するブラッドシフトなる現象が人間にも見られることを自らの体で証明し、今までの生理学や医学的な人間の身体の可能性についての常識をことごとく覆してきた人間である。

宇宙飛行士や、死をテーマに考え続けたキューブラ・ロスなどのような深遠や超高度を潜り抜けてきた人が大抵そうであるように、ジャック・マイヨールも晩年になると超自然というか宗教的オカルトというか、そういう類のちょっと胡散臭いようなあっち系のことを良く述べていたのだが、それでも、素潜りや海の好きな人にとって、彼は現在でもとてつもないカリスマであるといってもいいだろうと思う。

禅やヨガを学び、あっち系にも造詣が深く、実際的な意味で人間が生身で至れるもっとも深い深遠をくぐってきた筈の彼が自殺で、しかも海に沈むのではなく首吊りで命を絶ったという事実は衝撃的である。

以前から彼の本、そして彼について彼の兄が書いた本を読んできたが、いまいち彼が死んだ訳というか流れというか拍子のようなものが腑に落ちなかったので、もう一度この機会に読んでみた。

読んだのこのは紛らわしい2冊、ジャック・マイヨ-ル『イルカと、海へ還る日』と、彼の兄のピエール・マイヨールによる『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る』である。

この二冊はタイトルは似ているが内容はぜんぜん違う。
『イルカと、海へ還る日』は、ジャック・マイヨ-ルが自死を思う遥か以前に書いた本で、100メートル越えを達成して世界記録を樹立し、記録争いから降りて研究に打ち込み始めた一番ノリノリの時期に書かれた、彼がが素潜りを通じて目指すもの、人間が目指すべきもの、そして自らの師であるイルカについて書かれている、人間は海に還り、水棲人間へ進化するべきであるという主張に貫かれた、ちょっとあっち系の、激しく海好きである私から見てもどちらかというとトンデモ臭のする本である。
一方、『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る』は、兄のピエール・マイヨールがジャックの半生と精神を病んで死に至るまでを彼の視点で丁寧に書いた、ジャックがなぜ死んだのかについて語ろうと試みたドキュメンタリータッチの本である。

兄ピエールの『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る』を読んでいると、映画「グラン・ブルー」での孤独を好む物静かで控えめな人と打ち解けないジャックのイメージは、実際のジャック・マイヨールとは正反対であることが良くわかる。
実際の彼はとても人好きで寂しがりやで自意識が強く女性が大好きな如何にもエネルギッシュな人間である。
対外的には明るくエネルギーに満ち溢れたような人として振舞うが、一人になるとひどい精神的深みに潜ってしまってかなりの抑うつ状態に陥り、そんな姿を仲の良い家族や恋人にしか見せなかったようだ。

そんな彼が徐々に精神を病んでゆくのは、逆に彼の自意識が高すぎるが故であるという印象を受けた。普通なら満足すべき場所に彼は満足できず、もっと高みを目指し、全てを手に入れようと望むが、自らの老いであったり、その他色々な自分でどうにもならないことで上手くいかずに激しく落ち込む。
そして、そんな傷ついた彼から彼の元にいた女性がタイミングよく離れ消えて行き、時に彼を攻撃すらすることで、彼はますます深く傷つく。
ここぞという時に彼は女性と上手く行かず更に深く傷ついて精神を病んでゆくわけで、まぁ、ココまではどちらかというと良くありがちなチープな話ではある。

「ジャック・マイヨールが自殺したのは結局女性に振られたからだ」という言い方をしているのをネット上でちらほら見た。
もちろんそれも様々な原因の一端ではあったかもしれないが、彼が最後に自殺という手段を選んでしまったのは、結局のところあまりにも多く求めすぎたこと、そしてあまりにも自分が理解されないという孤独に耐え切れなかったのではないかという印象をこの二冊の本を読んで受けた。

ジャック・マイヨールといえば、殆ど神格化されたようなところがあるが、兄ピエールの描くジャックは、偉大でありながらも、同時にあまりにも人間的であったところが強調されていたように思う。
社交的で明るく偉大な業績を成し遂げた生ける英雄のその裏にどれだけの苦悩と孤独を隠していたのかを世に知らしめたかったのではないだろうか。
陽気で強い偉大な男ではなく、彼が世間に見せなかった孤独で弱い一個の人間としての彼を世に示したかったのではないだろうか。


人知を超えた深遠を生身で潜り抜けた彼は、どちらかと言えば明らかに「悟った」側の人間であるだろう。
彼が『イルカと、海へ還る日』で書いていることは明らかに「あっち側」の人の言葉であるように思う。
しかし、彼がそこにたどり着き、普通の人の見えない深遠と高みが見えるようになってしまったことは、逆に彼にだけ見えたその高みと深みを目指させることになってしまったのではないだろうか。
理解者の殆どいない孤独の中で、その高みと深みに自ら至ろうとした彼は、自らが目指す場所に見えながらもたどり着けないこと、自らがそこにたどり着く強さを持っていないことに耐えられなかったのだろう。
そして「悟った」側の人間であったはずの彼は依然として普通の人と同じように世の中の様々な雑事やトラブルに気持ちを乱され、悩まされ、落ち込まされ続けた。
身の回りに起こる自分にとって本質的な問題ではないと思える雑事に直接的に悩まされるだけでなく、そんな雑事に自分が悩まされているという事実自体も更に彼を悩ませたのだろう。そして彼は孤独の中どんどん追い込まれていった。ということになるだろうか。

世に自殺することで名声を獲得するタイプの人は多い。しかし、逆に彼は彼が生きていればより多く得られたはずの名声や、すでに受けていたいくらかの名声を自殺したことで失ったように思う。
ネット上には、彼が死を選ぶにしても、海の底で死に、海に還っていったのなら彼の思惑は分からないでもないが、彼が首を吊って死んだことにポリシーも何もないではないか。ただの自殺ではないか。彼の自殺は海やイルカや何かしらに対する裏切り行為であり冒涜である。といっている人すらいる。

カラマーゾフの兄弟で、ゾシマ長老が死んだ時に奇跡を期待する周囲の思惑とは裏腹に、彼の死体から直ぐに腐臭が漂い始めた。というエピソードがあったが、ジャック・マイヨールのただの自殺という事実は、それに通じるものがあるだろう。
偉人がその死後に地に引き下ろされるのは悲しくも象徴的である。

彼が『イルカと、海へ還る日』で書いていたような彼自身が本当に目指していたものは結局誰にも理解されることはなかったし、引き継がれることなく一代で絶えてしまった。
彼が評価され、彼の業績が引き継がれているのは彼自身が本当に目指していた所ではない閉塞潜水の分野であるに過ぎない。

しかし、英雄であった彼の自殺という死に方は彼のように高みだとか深みだとかを見たり目指したりする人にとってとても大きな教訓を残してくれたように思う。
彼の自殺が何かしらの主張やポリシーや思想の一環として行われたのではなく、どこにでもあるような自殺であったことにこそ意味があるように思う。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というニーチェの言葉があるが、あれだけの偉業をなして偉大な境地に達していた男も首吊り自殺しうる。という事実も一つの深遠であろう


高みや深みに「自分自身が到達する」事だけを目指していれば、特定の地点に到達した時点でより深く高い地点が幾らでも出てくる。
そしてどこかに到達したところで、自らの生活感あふれるチープな悩みがを一掃されるどころか、軽減されるわけですらない。
逆にそのチープな悩みに悩まされること自体がまた新たな悩みの種になるぐらいである。
結局、自分自身の苦しみの除去に到達地点としての「悟り」的なものは殆ど役に立たない。ということであろう。

そして「あちら側」だとか「深遠」だとか「高み」を見てしまうことそれ自体はそれほど大したことじゃないのだろう。
問題はそれを見てしまっても、そこを目指す事だけを唯一の目的にせずに済ますことではないのだろうかと思う。
何処も目指さないのも空しいが、かといってひたすらある地点を目指し続けるのでは報われない。
ゆる~くその地点に向かって歩いてゆくような、「道」を外れずに自らがその上にあることを満足するようなバランス感覚を持つことこそが大事なのだろうなぁと思った。

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コメント

こんにちは、はじめまして。
偶然ネット上で貴方の文章に行きあたり、とても共感するところがありましたのでコメントします。

随分昔、といっても18年ほど前のことですが、ジャックマイヨールおよびイルカの生態などにはまり、イルカの科学書などとともに購入した、「イルカと海へ還る日」にかなり傾倒した時期があります。高校時代のことです。

もともと小さい頃から潜って遊ぶのが好きで、小学校低学年の頃から、プールに行けばプールの底に腹ばいになって寝そべるのが特技、そしてほとんどプールのそこをなでるように手で移動して泳いだりするのが趣味でした。
中学時代に京都の北などに行って岩場で潜る感激を覚えてからは、家族で海水浴に行く時は決まって岩場をリクエストし、水中眼鏡だけで4メートルくらいは潜りながら遊んでいました。でも別に海辺に住んでいたわけでないので、子供の遊びに毛が生えたレベル、ですが。

ただ自然に潜るのが好き、という自分の趣味と、おこがましいようだけれど、ジャック・マイヨールのこの本はなにかとても共感することがあったため、また、犬には心がありそうだけど、蟻にはなさそう。生き物の、この違いはなんだ?と考えていた私にとって、ちょっと自分と違う部分があるかもしれないとはいえ(まあ、60代の男性の話ですからね、高校生にとってはある意味理解不可能に近いですね)夢中になってこの本をくり返し読んでいました。

そんなに夢中になったにもかかわらず、大学卒業後に専門学校生となって彫金の道へ進んだ私には、ずっと心に残る存在だけれど、彼のその後を追究はせずにいました。
イタリアに住むようになり、シチリアの美しい景色だからと人に勧められてグラン・ブルーを観たくらいで、彼の死を今日まで知りませんでした。

先日、ふと思い出して久々に「イルカと海へ還る日」を読み、やっぱり好きだなあ、この人、と思っていたところでした。今読むと、なんかピカソみたいだなあ、という印象でしたので(女好き、というのは知りませんでしたが納得できます)いまも生きているんだろうか、と最近の彼を探すべくネットで検索し始めたところです。

私は手作業を本業としていますので、高度に知能が発達したイルカ、でも、手がないということはその知能も、彼がいうような意味でまったく人と違う発達をしたのだろう、というように思っています。
ヒトは人であり、イルカはイルカである、というのはあたりまえですが、これをどこかで見極めるのは絶望に近いものにも思われます。言いかえれば、人は自然の一部だけれど、自然に対して自己から働きかけてしまうという宿命を持ったもの、というあたりでしょうか。

最近、私は雑事、と言われるような日常のあれこれこそやはり人間にとって大事なものだと思いますが、何かやりたいことがあるとき、人はどうしても本業をずっと上等なものと見做しがちなのですね。もちろん私もごく普通にそんな悶々とした気分のときもあります。

どこにでもあるような自殺だったからこそ意味があるように思う、というご見解、そのとおりだと感じます。
また、最後の一文、まさにそのとおりだ、と同感です。

次回日本に帰国したら、兄による本を是非購入して読もうと思っております。
長々と乱文を連ねてしまいましたが、どうしても書きたい!と思ったものですから。

mari様どうも始めまして。
かなり気合を入れて書いたこのエントリに共感頂き、また熱いコメントまでいただきましてとても嬉しいです。
ゆっくり拝見させていただきました。ありがとうございます。

私も子供のころから素潜りは大好きで、同じように京都の北や福井の岩場ばかりで海水浴をして育ちました。たぶん同じ場所に行っていたかもしれませんねぇ。
が、ここ5年ほど前に水深10メートル付近から感じられる、下に引っ張られるようなマイナス浮力の世界を知ってから強烈に素潜りと魚突きにのめり込みました。
低酸素状態で水圧を受けて銛を持って魚を狙っていると、絶対に陸上では味わえないようなちょっと麻薬的な魅力のある、もう殆どトリップしてるような特殊な精神状態になるので、一時期は依存症のようになって休みになると海ばっかり行って潜ってました。
一般的に海は「生」のイメージで語られることが多いように思いますが、ちょっと深く潜ると色々な意味で「死」の側面も強く感じられるわけで、、
マイナス浮力に引かれて魚を狙いながら、極であるはずの生と死の二つを同時に感じて意識しつづけていると、その二つが不可分なような、言葉にならない感覚が体に染みてくるような気がして、その感覚に魅せられていたような気がします。
素潜りに魅せられる根本の感覚はそこにあるような気がします。素潜りをやっている人って多かれ少なかれ同じような感覚を味わっているのではないでしょうか?
今はもうそんな依存からは脱して「あちら側」に向かわず戻って来ましたが、それでも夏に海に行って潜るとやっぱりその感覚を思い出して時間を忘れるほど熱中します。

イルカがバブルリングを作って遊んでいる信じられないような動画などを見ていると、イルカは手と指が必要の無い人間とはまったく別の方向性での知能や器用さを発達させてきたのだととつくづく思います。
我々の思う「あちら側」に住んでいるのがイルカな訳ですから、いくらかでも「こちら側」の世界に失望したジャック・マイヨールが、「あちら側」で色々な意味で一番発達して人間をはるかに凌駕したイルカを理想とする感じはとてもよく分かるような気がします。
とはいえ、いくら「あちら側」が魅力的で素晴らしい世界でも、そこに一時的にでも到達したからといって日常の雑事の苦しみが消えるわけではない事、むしろその世界を知ったからこそ苦しみが増してしまうこともあることをジャック・マイヨールの死は教えてくれるような気がします。
そういうわけで、最近は、雑事に悩まされれば悩まされるほど、「道の上にある」と意識して「修行の一環」と思えるようになって来たような気がします。

この『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る 』の原書はフランス語で書かれた Patrick Mouton, and Pierre Mayol, Jacques Mayol, l'homme dauphin だそうで、イタリアでお手に入り、かつフランス語もお使いになられるようでしたらこちらをお読みになるのもありかもしれませんね。

って書いていて海に行きたくなってきました。

こんばんわ
はじめまして

素潜りで、息を何分止めていられるかを調べていて行き着きました。


高みを目指していても、雑事に惑わされるのが人間ですよね。
雑事を抹消し、潔癖に生きられたらと願わずにはいられませんが、そーゆーのを目指す人は残念ながら『あっち側』にしかいない気がします。

ほんと、バランスをとって生きたいですが、半端ではなかなか満足のいく生き方にはつながりませんね(T-T)

所詮、弱者の論理でしょうか?


夢は、霞を食べて生きて行くことですが、そんなんだから生産性が上がらないんだとチープな悩みの元凶がうるさいです(( ̄▽ ̄;))


長々失礼しましたが、タイムリーな悩みのヒントをいただけたので、つい、勢いで書いてしまいました(^^ゞ

どうもこんばんは、はじめまして。
コメントいただきありがとうございます。
お返事遅くなりました。m(__)m

いや~それは「弱者」というよりは「ふつうの人」なんじゃないでしょうか?
私も自分は「弱い人」なんじゃなくって「普通の人」なんやって感じで開き直るとちょっとは楽になったような気がします。

たしかに私も霞を食べて生きられたらなぁと激しく望むこともありますが、
でも美味しい魚なんかを食べたりすると、「これは幸せや~」
ってなことも思いますので、
霞も食べつつ美味しい魚もカレーも味わいつつというところを目指しましょう!

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