金子みすゞ展/深遠を越えた先に見えるもの/芸術を鑑賞するとは

最初はセシウム137が出たってだけで「びぇぇぇーー」って滅茶苦茶ビビッたのに、
今やプルトニウムが検出されたって聞いても「フーンやっぱり」としか思わない自分に驚く今日この頃。
「漏れてない?」っていうと、
「漏れてない」っていう。
「溶融してない?」っていうと、
「溶融してない」っていう。
「プルトニウム238?」っていうと、
「プルトニウム238」っていう。
そうして、あとで、こわくなって、
「本当に安全?」っていうと、
「ただちに健康に影響しない」っていう。
こだまでしょうか。
いいえ、東電です。
ということで、京都の大丸ミュージアムでやっていた「金子みすゞ展」に行ってきた。
いわゆる展覧会的な金子みすゞの作品の解説や彼女の生まれた時から死ぬまでにわたる生涯についての展示はほとんど半分だけで、後の半分は金子みすゞに影響を受けたり金子みすゞを好きな著名人による、金子みすゞ自身や彼女の詩にについての思いやメッセージを作品つきでパネル展示してあった。
総勢64人に上る著名人のパネルがだーっと並んでおり、展覧会的にはこっちにもかなり力を入れていたのだろうが、松岡修造の金子みすゞについての妙に暑苦しいメッセージがあまりに達筆でとても綺麗な字で驚き、彼の高感度がますます増したことしか覚えていない。
それよりも私は、前半の金子みすゞについての生涯の展示があまりにも衝撃的だったのだ。
私自身は金子みすゞについてはJURA出版から出ている三冊の本『わたしと小鳥とすずと 』『明るいほうへ 』『このみちをゆこうよ 』を読んだことがあるだけで、その生涯についてはほとんど知らなかった。
若くして死んでいたことは知っていたけど、それはなんか病気か何かだろうと思っていた。
しかし、この展覧会で彼女の生涯をはじめて詳細にわたって知ったのだが、なかなかにドラマチックで、そして衝撃的だった。
なによりも衝撃的だったのは、このような「ほのぼの系でありながらも達観系悟り系」の詩を書いた金子みすゞが自殺していたということである。
なんというか、人間として初めて素潜りで100メートルを超えたジャック・マイヨールが自殺していたことを知ったときと同じくらいの衝撃であった。
って、展覧会の話ではないけど、その金子みすゞの生涯について、そして彼女の死について、展覧会で知ったことに加えて書いてみる。


彼女は20世紀の初めに大きな書店主の子として生まれ、小さいころから聡明で賢く人気もある女の子として育ち、高い教育を受けて、雑誌に投稿する同人として「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるほどにその世界では高く評価されていたらしい。
詩の世界で評価された彼女を中心にして、彼女の友人や従兄弟で構成された文化的なサロンのような集まりの中で彼女はその詩作と詩に磨きを掛け、彼女の評価はさらに高くなってくる。
そんな彼女に同じ集まりにいた彼女の従兄弟が思いを寄せることになり、彼女もまんざらでもないかも~ってところに、彼と彼女は実は本当の姉弟であったことを知り二人はガーン。ってなんか聞いたことのあるようなないような展開になる。
それでも彼は恋心を捨てきれず、それを危惧した彼女の養父が彼を彼女から引き離す意図と、自分の営む書店経営の政略結婚の意図を同時に両立させようと彼女の結婚話を進めはじめる。
彼はそれを知って猛反発して手紙やら何やらで彼女に不本意な結婚をやめるように嘆願するのだが、彼女はそんな彼に答えのような一編の詩を贈って結婚してしまう。
その一編の詩がなかなかに強烈で驚いた。
たぶんこの「あわ雪」がその詩だったと思う。

あわ雪
雪がふる、
雪がふる。
落ちては消えて
どろどろな、
ぬかるみになりに
雪がふる。
兄から、姉から、
おととにいもと、
あとから、あとから
雪がふる。
おもしろそうに
まいながら、
ぬかるみになりに
雪がふる。

まぁ、何も考えずに単体で詩として読んでみれば、特に衝撃的でもなんでもないほのぼの系の詩であるが、これが、自分を好きでいてくれながらも自分と結ばれる運命に無かった人を置いて結婚してゆく人がその人に送った詩だとして読むと、まったく鬼気迫った全く別のものとして迫ってくるではないか。
お前はいったい「雪」を何にたとえてるつもりなのやと、「雪」が「落ちては消えてどろどろなぬかるみ」になるためにふっているとはいったいどういうつもりで何が言いたいんやと、それになにより「姉から、おととに」やと?と贈られたた弟は思っただろう。
で、彼女の結婚は決して幸せとはいえなかったようで、結婚後の彼女はほとんど作品を創ることも無く家庭人に徹し、詩人としてはほとんど衰退の一方をたどり詩作仲間に残念がられて忘れ去られそうになり、彼女の才能を誰よりも認めて信じていた弟からは詩作を促されるも創らず、「平凡になった」と評される。
この大丸での展覧会では、じつはそれは彼女が夫の女性問題と病気でひどい状態に陥っていたから詩なんか作る余裕がなかったというような事が書いてあったが、いろいろ調べてみると、彼女は夫の明け暮れる遊郭通いと、その夫から感染した思われる淋病でどうしようもなく苦しんでいたようだ
相思相愛の夫のために詩作を捨てて家庭人に専念したのなら、世間からなんと言われようともそれが彼女自身の望みであっただろうが、夫に蔑ろにされ詩の世界からも脱落してしまった彼女はさぞかし辛い孤独に苛まれていただろうと思う。
彼女はそんな状態に耐え切れず一度は離婚話が持ち上がるも、彼女の妊娠のためにそれは回避され、さらに夫に詩作仲間との文通を、更には詩作まで禁じられてしまうにいたり、彼女は詩を作ることも無くただひたすら娘の成長記録だけをつけて生きてゆく事となる。
「若き童謡詩人の中の巨星」と呼ばれ、今まで詩を書くことで自らを語って自らを保ってきた彼女が詩を奪われると言うのがどれほど苦しみを彼女に与えるものであり、そしてそれは彼女にとってどれだけの酷い仕打ちであったのだろうか。
そして、彼女に本当の限界が訪れてとうとう離婚してしまった。しかし離婚後も彼女は分かれた夫と娘の親権をめぐって争い続け、そんな争いの最中のある日に、自分の詩と自分自身を一番理解し愛してくれた弟に自らの詩をノート三冊にまとめて遺し、カルモチンを飲んで自殺を企て、見事にそれを成功させてこの世を去ってしまう。そのとき彼女は26歳であった。
以前私は、ずっと不可解で全く理解できなかったジャック・マイヨールの自殺について、彼の兄のピエール・マイヨールの書いた『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る』を読んでなんとなく分かったような気がすると書いた。
人知を超えた深遠を生身で潜り抜けた彼は、どちらかと言えば明らかに「悟った」側の人間であっただろう。ジャック・マイヨール自身が彼の著書『イルカと、海へ還る日』で書いていることは明らかに「あっち側」の人の言葉であるように思う。
しかし、彼がそこにたどり着き、普通の人の見えない深遠と高みが見えるようになってしまったことは、逆に彼にだけ見えたその高みと深みをたった一人で目指させることになってしまったのではないだろうか。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というニーチェの言葉があるように、理解者の殆どいない孤独の中で、その高みと深みに自ら至ろうとした彼は、自らが目指す場所が見えながらもたどり着けないこと、自らがそこにたどり着く強さを持っていないことに耐えられなかったのだろう。
そしてなおかつ「悟った」側の人間であったはずの彼は依然として普通の人と同じように世の中の様々な雑事やトラブルに気持ちを乱され、悩まされ、落ち込まされ続けた。
身の回りに起こる自分にとって本質的な問題ではないと思える雑事に直接的に悩まされるだけでなく、そんな雑事に自分が悩まされているという事実自体も更に彼を悩ませたのだろう。そして彼は孤独の中にどんどん追い込まれ、そして最終的に死を選んでしまった。ということなのかもしれない。
世の中にはいろいろなタイプの詩がある。
痛かったり痛くなかったり、殺伐としていたりほのぼのしていたり、しかし「この世に無用のものはない」とか「みんなちがって、みんないい」とか言ったタイプの詩を書く彼女と「自殺」という言葉は余りにもそぐわないように思える。
この金子みすゞの展覧会を見て、このような少女時代と青春時代を送り、このような詩を書く人が最終的に自殺によってその生涯を終えたということに大きな衝撃を受けた。
しかし、彼女なりの深遠を潜り抜けて普通の人の見ないような世界を詩作を通して幻視してしまった彼女の人生にも、ジャック・マイヨールと同じような事が起こったのではないだろうか。
彼女に自殺を行わせることになった決定的な分かりやすい理由など恐らくなかったのだろう。
そしてまた同様に、彼女が自殺を思いとどまる決定的な理由もなかった。自分よりも愛する娘がいるということですら、彼女を止める事ができなかったのだ。
彼女のような、そしてジャック・マイヨールのような「あちら側」を見た人間は突発的な不幸によって発作的に死ぬことはほとんどなく、蓄積された日常の負荷によってある日スイッチが自然と切り替わってしまい、確信的に意識的に死を選ぶのではないだろうか。
彼女がその死を綿密に予定し意識的に行い、そしてそのことが彼女の心を安らかにさせていたことは、カルモチンを飲む直前の最後の夜の彼女がいつもより穏やかであるように見え、時間をかけて、娘を風呂に入れ、娘の体を抱きかかえるようにして洗いながらたくさんの童謡を歌ったという事実が物語っているように思う。
あれだけの偉業をなして偉大な境地に達していたジャック・マイヨールもそれがゆえに首吊り自殺し、あのような詩を書いた金子みすゞも最後はカルモチンを飲んで死を選びうる。という事実も一つの深遠であると思う。
何かしらの深遠を潜り抜けたり、またあちら側の世界を見てしまった人は確実絶対に自殺から遠ざかるのではなく、むしろ、逆に近づいてしまったりむしろ二回裏返って「あり」だと思ってしまうこともあるのではないだろうか。
彼女とその彼女に恋焦がれていた弟をとりまく物語、そして最後に自ら死を選んだ彼女の人生を知って、とても大きな印象を受けて考えさせられたし、
また、あらゆる意味で時代や民族を超えて単独で独立しているような「詩」という形式でも、その時の社会状況や、その時に書かれた状況などを知ることで全く違ったように受け取られることを実感した。
同じように音楽や文学や絵でもただ単純に見るだけでなく、それについて勉強することも結構大事なのだということを再確認したのであった。
なるほどそういう事こそ「展覧会」のコンセプトそのものですな。

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