ブリューゲル版画の世界/にんげんだもの/人間の成長も中世からルネサンスへ?/生活を楽しむこと

京都の伊勢丹の7階でやっている「ベルギー王立図書館所蔵 ブリューゲル版画の世界」に行って来た。
中々面白い展覧会だったので、ちょっと細かく、具体的に画像を参照しながら感想を述べてみたいと思う。
この記事で利用した画像は全て「無為庵乃書窓」様から引用させていただいた。
このサイトはとてもクオリティーの高い素晴らしい良サイトである。
ここをご覧でこのサイトを見たことの無い人はぜひ見ていただきたい。
そして、このエントリーも出来ればこの「ピーテル・ブリューゲル」での絵や作品群とボスの作品を参照しながら読んでいただきたい。


ブリューゲルは16世紀のベルギー、オランダ、ルクセンブルクあたりのネーデルラントと呼ばれた地域の画家で、初期はことわざや聖書の世界を描いた寓話的な作品を、後期は農民や庶民を描いた風俗画を書いた画家である。
初期の作品は風景画と悪魔や怪物の闊歩するような作風のものに分かれるようで、その悪魔や怪物の登場する幻想的な作品は当時の人気のモチーフの模倣であると言われることが多いようである。
しかし、私には彼の描く怪物や悪魔に満ちた風景は彼の頭の中で創作されたものではなく、実は彼は実際にこういった幻視や幻覚を日常的に見ていたのではないかと言うような気がする。
明らかに幻覚的な寓話的な作品が幻覚的であるのは当たり前であるけど、一見普通に見える初期の風景画「ティヴォリの景観」でさえ岩や山肌が内臓のような有機的な解け方をしているように見える。「アキラ」で鉄雄が見た幻覚のようではないか。
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そして彼が幻覚として見ていた(かもしれない)初期の作中に登場する幻想的な悪魔や生物は、暗くて鬱々したものの代名詞のように扱われるフランドル派のヒエロニムス・ボスの影響を受けていると言うことである。
しかし、怪物や悪魔のいるボスの絵が余りにも救いの無いような、中世的などんよりとした暗さなのに引き換え、ブリューゲルの描く悪魔や怪物が登場する絵はやってることは同じでも妙に明るくて楽しそうである。
ボスの描く幻覚と、ブリューゲルの描く幻覚は明らかにそのトーンが異なっているように思える。
その幻想的な作品の中で有名なものの中にキリスト教で最も重い罪であるはずの「七つの大罪」をシリーズ化した版画がある。
これは今まで書かれてきたような大罪の罪深さや大罪を犯すことの恐ろしさを知らしめると言うよりは、どちらかと言うと大罪の間抜けさとか可笑しさとをあらわしているように見える。何より版画に描かれている七つの大罪を犯しまくりな登場人物達は妙に楽しそうである。
「ヒャ~ッホィ」という声が聞こえてきそうなくらいで、ブリューゲルは楽しんで書いてたんやろなぁと言うところが妙に伝わってくる。
どちらかというと、「七つの大罪と愉快な仲間たち」というタイトルの方が似合いそうである。
私の気に入った「淫欲」の版画もよ~く見れば中々コアな色々な性癖をお持ちの方々が沢山いて可笑しい。
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21世紀に見ても中々コアなこの絵を、16世紀に発表するなんてブリューゲルはどんだけチャレンジャーやねんと。
というか、16世紀から今に至るまでこの「淫欲」のジャンルは大して進歩していないと言うことでもあるかな。
そして、明らかに幻覚的な有名な作品である「聖アントニウスの誘惑」も同じ題材で同じようなモチーフで書かれたボスのものと比べても、妙に活き活きして楽しそうである。
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なんというか、堕ちてしまったら悪魔に喰われて地獄行きで永遠の業火に焼かれるような「罪」への誘惑と戦ってる修道士と言うよりは、
「え~ん、ラゴスの居場所分からんのに勉強終わらん~(泣」とファミコンの誘惑に耐えながら期末試験の一夜漬けの為に教科書に向かう中学生のようである。
さらにこの「忍耐」という作品は彼の「罪」観や現実感がとても現れているように思える。
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普通「忍耐」といえば、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と世の苦しみや誘惑をひたすら耐える暗いイメージを持ちそうであるが、このブリューゲルの考える「忍耐」は何をやってるのか良くわからんけどとにかく妙にコミカルで楽しそうな幻覚の世界からの誘惑を、鎖で重石に結び付けられて耐えているイメージで、あっちの世界に行ってしまうともう戻ってこれないから我慢我慢ナムナム…というとてもライトな感じである。
彼の版画を見ていると、彼の持っていた「罪」や「悪」の感覚は、恐らく当時は一般的であった「罪」観である、堕ちてしまうと救いの無いようなものではなく、妄想一直線、変態一直線はヤバいですよ~楽しいけどほどほどにしときましょうね~という程度の軽い「罪」観であるように感じられる。
暗黒時代と呼ばれるほどの長くて暗い中世が終わり、今まで抑圧的だった価値観がルネサンスを迎えて楽天的なものに書き直されたと言うことをよく言う。
ボスの描く幻想的な世界が余りにも中世的な暗いイメージを引きずっているのに引き換え、ブリューゲルの描く幻想世界はルネサンス的な「にんげんだもの」とでもいえるような妙に楽天的で人間的な世界である。これはある程度当時の時代精神でもあるのだろう。
彼の描く怪物や悪魔を見ていると、中世キリスト教での「罪」や「人間」が暗くて救いの無いどうやっても堕ちてしまう存在だったのに対して、彼の「罪」観からすれば人間の犯しうる「罪」や「悪」なんかは他人から見ればアホらしくて笑えるもの程度だといういう風に感じられる。
彼の絵からは「貴方が自分自身に感じる罪深さや醜さも、他人から見ればこの程度の笑えて間抜けなものに過ぎませんよ」とでも言われているような、肩の力が抜けるものを感じるのであった。
初期に幻想的な作品を描いた彼であるが、後期の作品では一転して怪物や悪魔は登場せず、農民や庶民の風俗を描くようになった。
しかしその視点も今まで一般的に貴族が庶民に抱いていた「無教養な愚か者」というモチーフで描くのではなく、「生きることを楽しむ人々」という視点に貫かれていたという。
例えばこの「子供の遊戯」の楽しそうでフリーダムなカオスっぷりは如何だろう。
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その彼の作風の変化に、いわば生活を楽しむ事が人生の秘訣であるとも言うような彼の後期の絵が、彼の人間観や罪観が熟成した末にたどり着いたような境地であるように感じる。
そういえば、初期の「七つの大罪」と対応した、信仰、希望、慈愛などの「七つの美徳」シリーズの版画作品も、今までの絵のような抽象的で概念的な知的に解釈されるものではなく、具体的に生活上で行う行為として描いてあるのがとても印象的であった。
彼の作品の初期から後期に至るまで如何に彼が生活を大事にしていたのかという事が良くわかるような気がするし、そしてそこに彼の考え方の根があるようにも思える。
個体発生は系統発生を繰り返すと言うように、人間の成長もある程度人間の歴史をたどっている側面があるように思われる。
ヨーロッパ中世的な暗黒時代に陥っている人は、やはりルネサンス的な価値転換で自身の歴史を肯定する必要があるのかもしれない。
そしてその秘訣はブリューゲルの言うように生活を楽しむ事にあるのではないだろうか。
と言うことを思わせてくれるブリューゲルであった。
面白い展覧会なので、勢いあまって売店で売っていたブリューゲルのキャラクターのフィギュアを買ってしまった。
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現在水槽のアクリル蓋に両面テープで貼り付けて、エサやり時に外す時のつまみとして使用中。
まさかブリューゲルも四世紀後に自分作った魚のキャラクターがシマドジョウとミナミヌマエビの水槽の蓋のつまみになるとは思ってなかったやろうなぁ…(遠い目)

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