映画『Winny』/プログラムは自分自身の表現だ

先日映画『Winny』を観て来た。映画を映画館で観たのは久しぶりだ。
IT業界に身を置き、技術者であり開発者であり、そして当時を知る私にとってとても面白い映画だった。

この映画の言いたいことは、つまるところwinnyは当時世界をリードしていた技術が搭載されており、その開発改良を国家権力によってストップさせたこと、金子氏の開発者としての活動を7年も裁判で縛り付けて停止させたことは大きな国家的損失であり、そんな社会体制が今の日本のIT分野の凋落の原因の一つでもあるということなのだろう。

確かにwinny前後の世界の先頭を走っているような日本のIT方面でのイケイケドンドンの雰囲気がwinny裁判あたりを境にがらっと変わってしまったのは肌感覚として分かる。
winnyの開発意図を検察側は「著作権侵害を蔓延する目的」とし、弁護側は「p2pやクラスタリングなどの技術検証」としていた。
あの時代のあの場所のあの空気を知るものからすれば彼の「p2pやクラスタリングなどの技術検証」はもちろん大きな目的ではあるけど決してそれだけの純粋なものではないだろう。「著作権侵害を蔓延する目的」とはいかないまでも「著作権侵害物をダウンロードする目的」が少しくらいはあったことは間違いないだろうと思う。彼自身がダウンロードしかできないwinny改造版を持っていたことがその事実を示している。しかし、当時はダウンロードそのものは罪にならず、著作物をアップロードして誰にでもダウンロードさせることできる状態にすることだけが罪だったのだ。
当時は「ファイル交換」そのものが大きな市場を形成していてそこは人間のさまざまな欲望と最先端の技術の集まる場であった。すべてがfreeなものとして共有されそこには経済的な原理は皆無だった。何かを作るものはそんなより大きな場で自らを試してみたくなるのは当然だろう。
開発者というものはグレーゾーンギリギリを攻めるもので、時々やりすぎたり暴走した人物が逮捕されることはあるけど、金子氏はそんな開発者の中でも善良で悪意のない部類に入ると思う。
一方で人間には複数の側面があり欲望やダークサイドや理想に揺れながら日々生きている。
中井久夫の言葉に「人はその最高かそれに近いところで評価されるべきで、最低で評価されたら身もフタもない」というものがあるけど、金子氏は彼の中の最も最低の部分をさらに曲解されて裁判にまでかけられてしまったということになると思う。
この映画の金子氏は全面的に美化されすぎだという気もするけど、それは結局「最高かそれに近いところで評価」していることになるのだろう。
彼が映画の中で「プログラムは自分自身の表現だ」と言うような意味のことを言っていたけど、これはシステム屋で開発屋である私にもとてもよくわかるしグッと来た。
この一言だけで彼の全てがわかるような気がする。最先端の尖った技術がいくつも搭載されていながらもしょーもないファイルを全自動で寝ながらやり取りするバカでも使える面白おかしくてちょっとダサいシステムがwinnyである。
まさにこれは彼そのものを表現していると思うし、winnyを否定される、つまりは自身を否定されながらもダークサイドに落ちなかった彼は尊敬できる。
しかしwinnyに見え隠れする彼のしょーもない欲望や弱さによって彼が愛すべき人物だと思えることもまた事実である。
彼が技術者として尊敬されるのはその技術や高潔さであるが故だけど、彼が愛されたのはわかりやすい彼のその欲望と弱さゆえでもある。
金子氏を敬愛するものとしてはそんな金子氏の人間的な弱い部分ももう少し見せてほしかったなとも思う。
そして当時のインターネット内の、中でもこの界隈に漂っていた全能感に近いような感覚がとても懐かしく思い出された。

そしてその映画の原作のような『Winny』も読んだけど物語としては映画のほうが良かったかな。

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