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2015年10月27日

大原美術館再訪/熊谷守一と地獄変/下手も人生のうち

先週の末に友人たちと倉敷に行って来た。
友人たちはレンタルサイクルを借りて、いわゆる「美観地区」をぐるぐる巡るスタンプラリーのような事をやっていたのだが、私は独りでほとんどずっと大原美術館にいた。

二年前に行った時は時間的に制約があったので思う存分堪能したとは言い難く、大原美術館はええとこやーという事だけがわかった状態だったけど、今回は好きなペースで心ゆくまで大原美術館を堪能できたように思う。
週末だけあって大原美術館周辺は観光客でごった返していたけど、美術館内は人もまばらでとても心地良かった。

前回一番衝撃を受けたのは熊谷守一の「陽の死んだ日」だったけど、今回もその衝撃は変わらなかった。

実物を目の前にして盛り上ったり叩きつけられたりしている油絵の具の流れを見ていると、ただただ圧倒的な激情のようなものが湧き上がってくるように感じられる。

なぜか絵を描けず収入が途絶え、妻が絵を描いてくださいと懇願する中、絵をかけないまま次男の陽を医者に掛からせることも出来ずに死なせてしまった彼は、幼くして死んだ息子の枕元で突然絵筆を手にとって30分ほどでこの絵を描いてしまったらしい。
我が息子が死にそうになっているのに、その息子を救うために絵を描けなかった彼が、その息子の死を題材にして絵を描いたわけである。

この絵を見る人は彼の画家としての業の深さのようなものを目の当たりにすると同時に、その業の深い絵に対して圧倒的な感動を覚えている自分に気付くのである。
そして、絵を描いた彼だけでなく、彼同様に自分の中にもある、そして人間存在一般の中にある業の深さのようなものに目を向けることになるのだ。

陽を失ってから25年後、彼が67歳になった時、彼は次男だけでなく長女の「萬」も失い、その火葬の後に家に帰る様子を「ヤキバノカエリ」という絵に描いている。

抉り取られるような痛みと激情があふれるような「陽の死んだ日」に比べると、圧倒的に静かな喪失感のようなものが感じられるけど、
それでも淡くてコントラストの低い世界の中で長女のお骨とそのお骨を持つ長男の明暗の差はやはり「陽の死んだ日」に通じるものがあるように思う。

若い頃は「野獣派」にカテゴライズされる「陽の死んだ日」のような絵を描いていた彼は、やがて「ヤキバノカエリ」のようなシンプルな絵を描き始め、晩年はひたすら庭の虫や花を題材に殆ど子どもの書くような絵になっていった。
彼は、上手であるという事は先が見えていて行き先も分かってしまうけど、下手であることはどうなるか分からないしスケールが大きい。という意味のことをインタビューで答えていた。
そして常々「上手い絵を書こうとは思わない」と言っていたとおり、晩年の彼の絵は自らの絵を「下手も絵のうち」と表現するほどに極限までシンプルに削り取ってゆくわけである。

考えてみれば、絵を描くことしか出来なかった彼が絵を描くことが出来ずに子どもを死なせてしまい、殆ど画壇に属さずアウトサイダーであり続け、誰から見ても野心も競争心も虚栄心も感じられず、やっと晩年に認められながらも文化勲章も勲三等も辞退するという、とても不器用な生き方しか出来なかった。
彼の生き方は上手く立ち回った他の画家たちに比べてとても下手だったといえるだろう。
後に彼は「仙人」と呼ばれるような隠遁者のような静かな生活を手に入れて晩年をすごすわけであるが、
彼が目指した「下手も絵のうち」の画風は自らの下手な生き方を「下手も人生のうち」として肯定する1つの試みであった。とも言えるかもしれない。

芥川龍之介の短編に、画家が地獄絵図の屏風絵を完成させるために溺愛していた我が娘が牛車に乗ったまま焼け死ぬ様を描く『地獄変』なる物語がある。
その画家良秀は絵を完成させた後に自ら死を選ぶわけだけど、
同じく何も出来ずに死なせてしまった子どもたちを描いた熊谷守一は97歳まで生きて天寿を全うした。
彼が自ら背負った業に押しつぶされることなく、また決して自らその業を自分もろとも投げ捨ててしまうことなく「下手も人生のうち」として人生を生き抜いたところに彼の偉大さがあるように思う。

このエントリーを書くために熊谷守一の事をネットで調べていたのだが、色々な切り口はあれど、ある程度方向性は同じものが多い中、
1つのビジネス雑誌系のサイトで「長生きするってすごい!97歳まで生きて、最後まで裸婦を描く」というあまりにも脂ぎったタイトルで他のものとはまったく違う毛色で熊谷守一のことを紹介している記事があってとても驚いた。
アカウントを取得してログインすると続きを読めるタイプの記事だったので続きは全く読んでいないけど、なんとなくどういう読者層に対するどういう記事なのかは予測できるような気がする。
そんなもんわざわざ熊谷守一なんかを紹介するんじゃなくってアンチャン藤田嗣治でも特集した方がええんちがうか?

なんというか、人は自分の理解したいようにしか他人を理解しないというのがつくづく分かった。
たぶん私も熊谷守一のことを自分の理解したいようにしているのだろうな。そして色々な人も同様に。

  

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