「光の賛歌 印象派展」@京都文化博物館/暗黒でもいいじゃないか印象派だもの

先月の半ば過ぎ、4月の第三週末に京都文化博物館で開催されている「光の賛歌 印象派展」 に行ってきた。

土曜日と言うこともあってエライ人出だったが、これはいくらなんでも人が多すぎる。
流れに乗ってみると数時間コースになってしまうし、見たいように見ようとすると誰かの頭越しに見ることになる。
地味な日本画とかよくわからん現代アートとかの展覧会だと空いててとても快適だが、「みんな大好き印象派♪」の展覧会となるととたんにこの盛況っぷり、いつも行く伊勢丹の「美術館えき」の快適さに慣れきっている身としては結構キツい。

来ておいていうのもなんだが、私は印象派の絵はそれほど好きでは無い。

何がそれほど好きではないのかと言うと、とにかくなんか無闇にポワーンとした、初期のモーツァルトを思わせるような能天気さで、人生の楽しい面だけを見ようとするような視点が気に食わないのだ。

一般的に印象派ってのは産業革命と密接に関わっており、

  • 新しく生まれた写真技術により、正確に絵を描く必要性がなくなったため、自分なるフィルタを通した主観的な世界を対象として描くようになった。
  • 豊かになった社会のおかげで画家はパトロンだけに頼らなくてもよくなり、描く対象と購買対象が自由になった。
  • 絵の具の発達のおかげで屋外の写生が可能になった。

の三つが主な印象派の特徴と言われているようだけど、確かに当時に照らし合わせて考えれば、今までに余りなかった外の風景と一般人を明るく描いた、今までの貴族階級のものとは全く違う絵は、裕福になった市民が夢中になるのも良くわかる。
権力を握っていた貴族階級から富と権力を奪い社会の主導権を握っていた当時の市民にとって、今までの貴族のための絵画ではない、印象派の描く世界は、自分の住む世界が自由や享楽に満ちあふれていることを何よりも示してくれたに違いない。

当時の印象派の絵は、そういう意味で「革命的」に感じられたのだろう。現代の価値から過去の時点の価値をとやかく言うのはただの「言掛り」だと言うのはわかっていても、それでも21世紀に住む私の中の、印象派の絵とか表現はとても画一的で能天気に写るという私の中の「印象」は否定できない。
つまりは、権力と富を奪って有頂天になったブルジョア的な全能感に満ちた恍惚感が感じられてしょうがないのだ。

とはいえ、やっぱり評価が高い絵は実際に見るとやっぱり素晴らしい。見ているだけで世界は楽しみだけに満ち溢れているように見えてくるではないか!
うん。私の印象派に対する偏見は「そいうう風に世界を見てはいけない!」という我が内なるダイモンの叫びなのかもしれない。

で、人を見てるのか絵を観てるのかわからん状況でとにかく2順ほどして観て一番印象に残ったというか、前に立った瞬間に「おー」となったのはこの絵、
クロード・モネの「日没の効果、ポール=ヴィレのセーヌ川」(タイトルはうろ覚え)

うん!全然モネらしくないどんよりとした日暮れの絵だw

そう、「光の賛歌 印象派展」というくらいなのだから、「暗黒の印象派」がいても良いではないか。
なんというかひたすら能天気な絵画ばかりが並んでいる中で、このモネのダークサイドを覗かせるかのようなこの絵を観て、私は「人生の明るい面だけを見つめるのは不可能だ」ということが良く判ったような気がする。

とはいえ、ただそんな風に人生の明るい面だけを見つめるのが気に食わないのだとしても、人生の暗い面だけを見つめるのもまた、同じように陰気なだけですな。

あのモーツァルトの時折見せるソナタやピアノ協奏曲の暗さから伝わってくる深刻さや切実さは、彼のほとんどの作品の能天気さのコントラストとしてより引き立って感じられるのだろうし、ベートーヴェンの限りなく美しいバガテルやロマンスは彼の主要な曲の深刻さが頭に染み付いている耳で聴くからこそより甘美に感じられるのだ。

人生はただ楽しいとかただ辛いとかいった画一的なあり方だけはないからこそ、そこにコントラストがあるからこそ味わい深いのだ。
食べ物で言うならスイカに塩でより甘みを感じるとか、カレーにすりおろしりんごで辛さにコクが出るとか、アイスクリームにしょうゆでウニの味になるとか…いやいやそれはまた違う話やー

といことで、人生の能天気さもちろん、モネのダークサイドが堪能できる「日没の効果、ポール=ヴィレのセーヌ川」が見られる「光の賛歌 印象派展」@京都文化博物館は5/11までだ。いそげ~

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