魔法のはさみ-今森光彦の切り紙美術館/足算ではなく引き算での表現/枝豆男爵との邂逅

以前ブログを良く書いていた時は、行った展覧会とか美術展とかの感想のようなものを行く度に書いていた。
ここしばらくはブログ自体を書くことが少なくなったけど、展覧会自体は結構よく行っている。
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最近、なんとなくブログをちゃんと書いていこうとちょっとだけ決心したので、この日曜日に行った、京都伊勢丹『美術館「えき」KYOTO』の「魔法のはさみ-今森光彦の切り紙美術館-」の感想をば。
今森光彦といえば、昆虫写真家であるが、私は会場に行くまでこの「切り絵作家 今森光彦」が「昆虫写真家 今森光彦」と一致しなかった。
以前この人の里山写真展に行ってとても気に入った記憶がある。昆虫やら里山への視線にとてもシンパシーを抱いたような感触がまだ残っている。
ということでブログを検索してみたら、行ったのは2007年の10月8日だったようだ
今から四年前の話である。いやーブログのエントリも消さずに残しとくもんですなー


で、今回はその昆虫写真家である今森光彦のもう一つの顔である「切り絵」の展覧会であるが、その昆虫写真家今森光彦の切り絵の現物を見た最初の瞬間の感想が「気が狂っとる!」であった。
どういう風に切ればこうなるのか全く理解できない上に、絵のような緻密さで圧倒されるのでは無く、紙を切り取る緻密さで圧倒される経験というのは慣れないせいか精神にダイレクトに突き刺さる何ものかがある。
「絵画」がキャンバスに色を乗せてゆく「足し算的」なものであるのに引き換え、「切り絵」が色紙というキャンパスから空間を切り抜いてゆく「引き算的」な表現であることも何かその精神に直接働きかけるなにものかがあるのかもしれないようにも思う。
満ちてみるものから何かを引いてゆく事が創造や表現になるというのは考えてみれば面白いし、日常では余り無いことであるような気もする。
切り絵は紙を折った状態で端を残して切れば対称形になるので、文様としてそうなっている切り絵も多々あったが、ただ左右や上下に並んでいるのではなく、ヨシノボリがこんな感じ
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で向かい合ってお互いを威嚇しあっているスタイルになっているようなものもあって和んだ。
描いた人や撮った人の眼差しや視点や美意識がそのまま反映される絵や写真が描かれたり撮られたりした実物よりも美しく見えたり醜く見えたりるということは良くあることであるが、この人による切り絵の蚊やナナフシの繊細さと機能性は息を呑むほどに美しかった。
一緒にこの展覧会に行った同行者は虫アレルギーといって良いほどの虫嫌いなのだが、私がため息をつくほどに美しく感じるこの昆虫の美点を、さぞかしおぞましいものとして捉え感じていたのだと想像すると可笑しくなってくる。
最初はちょっとびっくりしたけど、見ていると写真から伝わるような里山や昆虫に対する愛あふれる眼差しが切り絵からも伝わってくるもんですな。
ってまぁ当たり前やけど。
本来ならリンクは伊勢丹のオフィシャルページが望ましいのだが、展覧会が変わるごとにページが上書きされるので、やむなく「京都で遊ぼうART」に張った。
いや中々これは便利なサイトですな。
で、京都周辺をぶらぶらした後、ポルタから地上に上がる長いエスカレーターを上がっていたら、仕事帰りの後輩の枝豆男爵が下から駆け上がってきた。
白シャツに紺ズボンといういでたちは遠くから見ると高校生のようだったが、間近に見るとくたびれたサラリーマンである。
しかし、話してみるとそのテンションはとても仕事帰りとは思えない。
どちらかというと「海水浴に行く車の中で始めて海が見えた瞬間」、あるいは「ちょっと良い感じのお寿司屋さんで、好きなもの食べていいよと言われた」くらいのテンションである。
彼のテンションの高さは昔からであるが、それでも彼のテンションは「尿検査したほうが良いんじゃないか?」と思わせるほどであった。
遠めで見れば高校生やけど、近くから見ればくたびれたサラリーマン、話してみると遥か上方を飛行するテンション。前から個性的な人ではあるとは思っていたけど、なんかそういうジャンルを超越したわれわれの遥か上を行く偉人であるように思えてきたのであった。
あーありがたやありがたや…

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