武政健夫ガラス彫刻展~限りなき透明の世界~/ガラスのハートと急須の口のナイロンカバー

京都の大丸ミュージアムでやっていた「武政健夫ガラス彫刻展~限りなき透明の世界~」に行ってきた。
展覧会チックなところに行く時は全く知らないものであれば少しばかり予習してゆくことが多いのだが、今回は全く予備知識なしで行った。
なんでも武政健夫という人は、オーストリア国立のガラス細工専門学校で学び、
そこを驚異的な最優秀の成績で卒業すると直ぐにスチューベングラス社に主任彫刻士として迎えられ、8年勤務した後に独立する。
独立後の作品は余りにも緻密で手が掛かっており年に3、4個を作るのが限度で、今までの作品数は60点程度しかなく、その作品はアメリカの歴代大統領による各国の首脳やロイヤr・ファミリーへの定番のプレゼントとされるほど評価が高く、この展覧会ではそのうち35点が展示されている。
ということである。そのあたりの事は「日本の現代ガラス作家」ホームページ内の氏のページに詳しい。また以下の画像も同じ場所から持って来た。
入り口にあるそんな感じの事が書いてある説明パネル読んで中に入ると、ガラスケースに入って台の上に乗せられた35点の作品が、仕切りの無いワンフロアすべてをつかってどわーっと等間隔に並べられているのが目に入る。
美術品の展覧会といえば順路に沿って1個づつ見てゆくのが普通であるが、視界のすべてが作品で埋め尽くされている様はなかなか圧巻であった。
薄暗い展示場の中で天井からの照明を受けてキラキラ輝くガラス彫刻が並んでいるのを見て、余りにも現実離れした光景になんだか笑えて来て「これは私の生活にはたぶん関わることの無いものやなぁ」と思いつつも、
「いや~人生何が起こるかわからんし、ひょっとしたら何かの拍子にアメリカ大統領からこのガラス彫刻をプレゼントされる日が来るかもしれんで~。いやでもそうなったちょっと困るわぁ、置く場所ないし…漬物石にするわけにもいかんしなぁ(失礼やー)参ったなぁ」と無駄な心配をしながら結構熱心に眺めた。


どの作品もただその精密さに驚くだけでなく、材料のガラスの性質である透明さ、或いは透明な多面体の持つ性質が上手く生かされていてとても面白かった。
このサケ科の魚の泳ぐ作品は土台のガラス自体が波打っておりまさにガラスそのものの透明さを生かした作品である。
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この作品はちょっと見にくいが、三角柱のガラスの表面に模様を彫ったものを複数重ねた状態で一つの作品とされており、プリズムのように光の屈折で見る角度によって浮かび上がる模様が全く違う。
takemasa_t_12.jpg
この中の蝶が一匹いるのだが一枚だけ彫られた羽が、他の平面に反射して二枚に見え、見る角度に羽の開きが違って見える。
そしてどの作品も名前がついていなかったのが興味深い。
確かに名前というのは何に意味を与えるものであるけど、それは逆に特定の広がりの中からあるエリアを区切ってしまうものでもあるわなぁ。
でもクラシック音楽みたいに作品番号つければ面白いんじゃないだろうか。
これらは「銅盤ガラス彫刻」なる技法で作られており、様々な直径と薄さの銅版を回転させてガラスに近づけ、銅自体はガラスより柔らかくガラスを削ることが出来ないので、ガラスと銅版の接点に研磨剤入りの水滴を滴下することでガラスを削ってゆくという技法らしく、考えただけで気が遠くなる。
見る前は「精密なガラス細工」と聞いて華奢で繊細で触れれば直ぐバラバラに壊れそうな脆いイメージを抱いていたのだが、
このガラス細工は繊細ではあっても彫刻なのでそういったイメージは無く、見ていて安心感があった。
華奢でも繊細でもないのに、いつの間にか一寸したことですぐ欠けている私の脆すぎる「ガラスのハート」とは偉い違いですな。
「ガラスのハート」などとちょっと80年代ポップスのように格好良さげな単語を使っているけど、むしろ私の心は「急須の口」に近いのかもしれない。
気付けばいつの間にか欠けてて、生活上に根本的な不便は無いけど、お茶を注ぐときに無闇に気になるし茶渋もたまりやすい。
うん。どう考えても私の心は「ガラスのハート」なんかじゃなくって「急須の口」だー
私は急須の口に絶対ナイロンカバーをつけたくない派なのだが、自分の心を守るために装備したほうがいいのかなぁ、「急須の口のナイロンカバー」
と、17世紀ヨーロッパから続く、貴人に愛好された銅盤ガラス彫刻を見ながら、しみったれの最高峰のように思える「急須の口のナイロンカバー」を思い浮かべる私は、やっぱり「銅盤ガラス彫刻」には縁が無いだろうと思ったのであった。

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