「ハレ」でも「ケ」でも「エサ」でもなく
様々なコストがかかっていてその高コストが回収できるという確信の下に作られるような、高い材料を手間隙かけて構成したり、絶妙の調理時間とタイミングの組み合わせで提供したりする料理は、供給側にも需要側にも高くつきそれに見合う美味しさが期待されるのは高度資本主義経済的にまぁ当然であると言えるだろう。
しかし、真に創造的なのは高コストの素材や調理法を駆使する事ではなく、ごくありふれたものを組み合わせ、ごくありふれた方法でとても美味しいものを作ることだと思う。
たとえば私が大好きでよく行くお店のこんなスパゲティー
左上が「なめたけ+大根おろし+ツナ+レモン」のぺペロンチーノ
右下が「舞茸+湯葉+豆腐+豆乳+トマト」のクリームパスタ
などと決して高コストではないどこにでもある材料であるにも拘らず、その組み合わせによってとても美味しいものになっている。
そこにはただ思いつくものを混ぜるカオスがあるわけではなく、素材や色で統一性を出しつつ、差し色を入れたり、レイヤーで外したりという服を選ぶときのようなバランス感覚を必要とする技術があり、料理そのものだけではなく、内装や音楽や食器とトータルのものとして構成されていることが多いように思う。
上のスパゲティーなどはかかる金銭的コストも時間的コストもそれほど大きなものでは無いので、作ろうと思えば家でもそれなりに簡単に作ることができる。
こういった類の料理に触れる事は非日常に触れるのではなく、拡張された日常性に触れることでその可能性の枠を広げるものである。という見方も出来るし、大きな事から大きく学ぶ高コスト高リターンの方向ではなく、日常的な小さなことから色々なことを常に学んでゆくような方向性であるといえなくもない。
そういった、いわゆる「カフェご飯」なる恥ずかしい響きの名前で言い表され、他の料理の方向性とは別のものとしてカテゴライズされるものは、「ハレ」というほどハイテンションでもないけど、「ケ」というほどの日常への埋没姓も無く、かといって「エサ」というほど自虐的でもない、日常を延長させることにより日常の枠を広げつつ、日常そのもを肯定する1つの試みなのかもしれない。