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2006年4月28日

それでも我思う万有引力は回っている。

前回の文体が気に入ったので、引き続きおなじような感じで書いてみる。
古来から何を「前提条件」とするかについて人々が頭を悩ませ、またその結果何が生み出されて来たのかは、アイザック・ニュートン、ガリレオ・ガリレイ、ルネ・デカルトの例を引くまでもなく、皆の知るところである。
その「前提条件」の諸問題については哲学から量子力学に至り、また我々の日常生活にまで大いなる影響を及ぼすものである事もまた疑いの余地は無いのである。
どこを出発点にするかというのは中々難しい問題であり、また何かしらの物事をおっぱじめるにあたって初期段階で最も注意すべき事柄であるのを我々は解っているつもりであるが、果たして本当に解った上で行動思考しているのかはなはだ疑問に思う事が最近よくある。


たとえばであるが、「ゲルマンは崇高な民族である」であるとか「黄色人種は動物に等しい」「鬼畜米英は人肉を喰らう」などといった大がかりなものであれば「そら旦那おかしいでっせ」と直ぐにでも異議を唱える事は容易である。
しかし、我々の周りにいるそういった事に異議を唱えるのをやぶさかとしない人々の中からも「私はとても仕事が出来る」であるとか「俺は常に正しい」「私以外は全て愚民である」「私が一番不幸」等と言った前提からスタートして「あの人は仕事が出来ない」「私ばかり仕事を押しつけられる」「あの人は根本的に間違ってる」「みんな私の事を解ってくれない」「愚民共のおかげで私は能力を発揮できない」「私の不幸に比べればあの人は愚痴を言う権利など無い」などという帰結に至り、悦に入って他人を小バカにし、愚痴の噴流を迸らせる「困ったちゃん」が出来てしまうわけである。
彼らの間違いは彼らの論理ではなく、彼らの前提条件である事がおわかりいただけよう。
しかるに賢明なる読者諸君(当然私も含む)は果たして彼らを弾劾する義務を有しているのであろうか?
答えは否である。
彼らが下品な花を咲かせるからといって下品な花を上品とは言えないまでも普通の花にするのは並大抵の事ではない。
なぜなら、下品な島の下品な丘に咲く下品な木が下品な花をつけるのであるからして、下品な花を咲かせないためには下品な島を下品でないよう作り替える必要があるのが道理である。
よほど差し迫って必要に駆られて着手するのでない限り、上品で賢明なる読者諸君には少々荷が重すぎるであろう。なにしろ相手は花ではない。島なのである。
我々のなすべき事は、ただただ彼らを座視して自らを省みて下品の萌芽を見逃さない事である。
上品な島に下品な種が舞い降り下品な根を張る事こそ危惧すべき事態である。
先に個人の抱く前提条件が実は前提条件ではないという例を示したがわけであるが、一方巷に溢れる社会的な前提条件とされるモノが実は前提でもなんでもないという事もまたよくある事である。
たとえば「愛は永遠」「基本的人権の尊重」「NHK受信料を払いましょう」「三権分立」などというものは明らかに前提条件ではない。あるものはただの「目標」であり「希望観測」であり、またあるものは明らかに「勘違い」や「思いこみ」に過ぎない。
これらを前提とした邁進の結果何が起こるかは皆の周知するとおりである。
もちろん希望や目標を持つのは結構な事であるし、それが人類にとっても個人にとっても有用である事は否定しない。
しかしながら、本来希望や目標であるモノを前提条件としてしまう事はいかがなものであるかと私は思うわけである。
悲しいながらも認めざるを得ない前提条件というものがあり、そこに立脚する事で万人にとって個人にとって意味のある希望なり目標に着手できるのではないかと考える次第である。
なお、あまりの偏見、あまりの思いこみ、あまり公正さの無さの文章ゆえではないが、
特定の個人、特定の団体、特定の社会を指し、またそういったモノに対して苦情を申し立てる意図が無い事を申し添えておく次第であります。

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