ヒトが求めるもの グイン・サーガと物語と利己的な遺伝子
ここ2年くらい前から新刊が出ているのにあまり読む気にならずスルーしていた『グイン・サーガ』なる小説を先日再び読み始めた。
この『グイン・サーガ』なる小説は当時はそんな区分もなかったけど、今で言えばヒロイック・ファンタジーとライトノベルをあわせたようなジャンルになるであろう、1979年に第一巻が出版されてから現在に至るまで142+26巻以上からなる世界でも類を見ない長大なシリーズとして続いている。
私がこの『グイン・サーガ』なる物語を読み始めたのはちょうど30年位前の中学から高校の間くらいで、年をとるにつれて読む本の傾向が全く変わってしまってもこの『グイン・サーガ』だけはなぜかずっと読み続けてきた。
私が思春期の頃からオッサンになるまでこの『グイン・サーガ』の世界は私が実際に所属する現実世界とはまた別に存在する平行世界であり、その平行世界の国々の歴史は私の現実世界の歴史と密接にリンクし、その世界に住まう人々に対してある意味で現実世界の人々以上の親近感を抱いていたのだ。
私がこのシリーズを読み始めた高校に入ろうとする頃、グインは自らの信ずる正義のために命令を無視してケイロニアの軍籍を抜け単独でユラニアに進撃し、私が大学生として遊びまくっていた頃、モンゴール救国の英雄として将軍となったイシュトヴァーンはそのユラニアを含むゴーラ3国を統合しようと暴走を始め、私が働き始めた頃には、パロ王レムスとクリスタル公アルド・ナリスの確執はクーデターとなりパロの内戦に発展しようとしていた。
そして、今から10年ほど前、今思えば私にとても大きな影響を与えたとても大事だった人が去っていった頃、グインはアモンを追放しパロを救うことで記憶を失い、モンゴール大公アムネリスの侍女であったフロリーはイシュトヴァーンの息子を彼の父親の名をその胸の中に秘めたまま生み育てていた。
そんな、物語の次世代の登場人物が徐々に出てきつつあるその頃に作者である栗本薫が逝去する。
それによってそんな物語はすべて途中で中断し、その平行世界が時間が止まる形で終わってしまったことで、当時の私は結構なショックを受けた。
それまで数十年続けて来た、少なくとも数ヶ月に一度は出ていた新刊を夕方に買って帰ってほとんど徹夜で一気読みするという習慣がなくなった。
思えば、本好きなら誰もが体験するであろう、徹夜で物語に没頭した後に現実世界に戻ってきた時の、寝不足と疲労でフラフラする、物語世界と現実世界のリアリティーが逆転したような状態の頭にアドレナリンが駆け巡るような、覚醒と疲労と離人感が入り混じったあのふわふわしたような感覚の心地良さを『グイン・サーガ』が一番多く与えてくれたのだ。
そんな風に本を読む日も殆どなくなり、この何十年もずっと同じ場所で徐々にその数を増やしてきて本棚の結構な量を占めていた、もう増えることのない150冊ほどになる全巻を思い切って処分した。
栗本薫が逝去してから今までのその背表紙の群れを目につくたびにかすかに芽生えるちょっとした寂しさのような感覚を覚える事もなくなり、代わりにぽっかりと開いた本棚の空間からちょっとした欠落感のようなもの感じながらも、その隙間が新しい別の本に埋められてゆくにつれ、人生の殆どの時間を奪われ縛り付けられていた物語世界から脱して開放されてゆくような感覚も抱きつつあった、というか、単純に言えばグイン・サーガが更新されることのない世界に慣れてしまったのだ。
そして今から5年前、更新されることのないままに終わったはずの『グイン・サーガ』の最後の巻が出て5年後、もうほとんど『グイン・サーガ』の呪縛から脱していたと言っても良い頃、私と同じように『グイン・サーガ』の熱心な読者でもあり、また著者栗本薫の門下生でもあった二人「五代ゆう」と「宵野ゆめ」なる二人の作家が終了したはずの『グイン・サーガ』を交代で書き続けることが決定し、栗本薫の版権を管理する会社から新刊が発売される事になった。
栗本薫自身も自分が生きているうちにこの小説を完結させることは出来ないと思っていたようで、自他ともに認める「憑依型作家」である彼女らしく、栗本薫自身が『グイン・サーガ』なる物語は、著者の私自身の意図と関係なく著者を経由して自立的に物語られてゆくもので、私自身も私の書いた物語の読者であり、私だけの物語ではない。というような意味の事を生前に常々言っており、自分の死後には誰かに続きを書いて欲しいと言うことを言っていたけど、本当にそうなってしまった。
長期連載していたマンガやら小説やらが作者の逝去によって中断することは多々あるけど、他の誰かが続きを引き継ぐという事はそんなにあることでないと思う。
栗本薫という著者の逝去により終わったはずの『グイン・サーガ』の新刊が別の作者によって再び書かれて出版される事になるのを知って、墓を暴いてその遺産を掘り出すような、死者を蘇らせてその口から語らせるような、そんな、禁忌に触れるようななんとなく不吉な感じがしたのだ。
映画『惑星ソラリス』で主人公の心理学者のクリスの目の前に過去に死んだはずの恋人が現れ、現実の恋人ではありえないはずなのに彼女をその恋人として扱わざるを得なかったように、もう諦めて吹っ切って納得して解決していた筈の事でも、実際に目にするとそんな違和感や決意は一瞬で吹き飛んで昔に戻ってしまう。
実際に決して目にする筈のなかった新刊を目にすると、当初感じた違和感のようなものや呪縛から逃れた開放感のようなものは一瞬で消えて読まずにはいられなかったし、昔と同じようにすべてを忘れて一気読みした。
読み終わった後の昔と同じような覚醒と疲労と離人感が入り混じったふわふわ感を感じつつも、一方で開放されたと思っていた世界に再び囚われるような怖さのようなものも感じた。
村上春樹が著作に関しての批判や指摘を華麗にスルーする時によく使う得意技でもある一般的な言説に、「著作と著者は完全に独立している。」というのがある。
そういう意味から言えば『グイン・サーガ』と栗本薫は完全に独立しており『グイン・サーガ』が栗本薫以外の著者によって書かれるのは何らおかしいことではないはずである。
とは言え、いくら同じ物語でも著者が変わればそれなりの明らかな違いを感じそうなものだけど、実際に栗本薫ではない誰かによって物語られる『グイン・サーガ』は私には驚くほどに全く違和感も齟齬も何もなく感じられた。
そもそも今まで『グイン・サーガ』に栗本薫が書いているとかその他の誰かが書いているとかそういった著者の存在を感じていたのかすら疑問になるほどに不思議な感覚だった。新しい著者を得た『グイン・サーガ』が作者の死とそれによる5年の物語の停滞を全く感じさせず何事もなかったのように語られ始める様に触れるのは、同時に何かとんでもないものの一端に触れるようでもあった。
それは一時その動きを止めていた『グイン・サーガ』なる物語が「栗本薫」という宿主から這い出て、新たな「五代ゆう」と「宵野ゆめ」なる宿主を選び、読者と著者を取り込んで再び成長を始めたかのようでもあった。「物語」の持つ怖さと生命力のようなのようなものを当時は感じたのだった。
そんな感じで五年前に再び『グイン・サーガ』の新刊を追うことになったけど、ここ二年ほどの新刊は全く読んでいなかった。
ということを冒頭に書いたけど、そもそもこの二年、『グイン・サーガ』にかぎらず殆ど小説を読まず「物語」に触れる機会は全くと言っていいほど無かった。読んだとしても過去に何度も読み返したものを何となく昔を懐かしむように少し読むくらいだった。
考えてみれば物語を一切を求めなくなるに足る根本的な原因がその二年前に確かにあったといえばあったような気がしないでもないけど、時が経ったからか何なのかわからないけど、とにかく最近久しぶりにふと小説が読みたくなり、そういえばと思いついてこの2年間で出ていた3冊の『グイン・サーガ』の新刊を昔のようにフラフラになりながら一気読みしたのだ。
「物語」そのものからしばらく離れていた私が新しい『グイン・サーガ』に触れて、久しぶりに感じた圧倒的な力を持つ「物語」に対する見方はまた新しいものだった。
『グイン・サーガ』なる物語が最初の著者である栗本薫によって世界に広まり、著者の死後はその読者であった「五代ゆう」と「宵野ゆめ」がその物語を引き継いで世界に広め始めた事実は、よく見ればいわゆる「神話」と呼ばれる物語と全く同じ構造をしている。
一つの体系に属する「神話」を構成する様々な「物語」は様々な話者や著者によって時には内に事実的な矛盾や破綻を含みながらも一つの神話体系を形作り「物語」として語り継がれてゆく。
考えてみれば神話に限らず人間の生み出すあらゆるものは「物語」で記述することのできるのではないか?
世界、国家、歴史、宗教それらすべては典型的な一つの世界に関する「物語」であるし。科学技術やテクノロジーもまた一つの物語にによる世界解釈でありそこから生み出される何者かであるといえる。
世界に存在する様々な「物語」はまるで遺伝子のように「ヒト」に語られることによって広がり受け継がれてゆく。
遺伝子がその乗り物である生物の上で利己的にふるまうように見えるのと同じように「物語」もまたその乗り物である人の上で利己的にふるまうように見える。
親が子を守るように、また生物が赤の他人よりも血縁関係のある個体を優先するように、あるいはまた働きバチが子孫を残さずに女王バチにその命をささげ尽くして子を産ませることで、自らが子を産むよりも多くの共通遺伝子を残すことになるように、人はその歴史の中で自らの属する、宗教、政治、あるいは科学の物語に自らの全てを捧げ自らの命を失ってまで物語を守り、自分より多く広くその物語を伝えることのできる人のために命を捨ててきた。
生物としてのヒトが求める根本的な欲求ではなく、人間としての人が求める快楽や安心や刺激の殆どは考えてみれば何かしらの「物語」の構成要素に見える。
考えてみれば、自分の過去現在未来の姿、自分が何者でどうありどうありたいか。それらは一つの「物語」であるし、自分の苦悩、悩み、問題そういった諸々に一つの救いや解消や解決が得られるというのはある一つの自らの望む「物語」によって一つの意味や解釈が与えられることであるとも言える。
そして人間が抱く欲望も何かしらの「物語」そのものではないのか。
地位、名誉、富、快楽、安心、愛、健康、社会的使命、等々、一般的に人が求めると言われるであろうそれらを求めて手に入れることは一つの物語に自分をおくことであるし、また、それらを求めずにまた別の道をゆくのも一つの物語である。
人間としての人の欲望の形は実に様々だけど、結局のところ求めるものを突き詰めてみればある一つの自分を貫く「物語」に収束するのではないだろうか。
利己的な遺伝子論は、それまで漠然とそうであると思われていた生物の根源的な欲求としての「自己保存」とそれに基づく「本能」が副次的なものに過ぎず、生物の自己保存を含む欲求のすべてが「遺伝子の保存」を目的とした要請に基づくもので、生物の個体自体はただの遺伝子の乗り物にすぎないとして、科学分野だけでなくその後の世界の生物観や生命観を大きく変えたといわれる。
生物にとっての遺伝子と自己保存と本能との関係がそうであるように、人間にとって一番最優先されるのはその物語で、自己保存とか欲望とか言ったものはその物語の副次的なものに過ぎないとすれば、また、利己的な遺伝子論と同じように人が「物語」をその中に持つというよりもむしろ、「物語」を保存し広め更新し生み出してゆくための乗り物にすぎないととすれば、利己的な遺伝子論前後の生物や生命に対する見方がを一変させたように、人が自らの生命や生きることそのものに対する見方も少しは変わるかもしれない。
思えば、私はずっと自分が何を求めているのかよく分からなかった。
一般的な意味でよく言われる、自分がこれからどうなるのか、どうなりたいのかといったヴィジョンのようなものもまったく持っていなかった。
アラン・ケイの「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」という言葉は大好きだけど、自分に関しての発明すべき未来を思いつくことはできなかった。
今でも自分が何を求めているのかは分からないし、自分がこれからどうなりたいのか、また発明したい未来というようなヴィジョンも相変わらずまったく持っていない。
それでも、今までの欲望ベースで「自分は何を求めているのか」や「自分はこれからどうなりたいのか」などと言わずに「自分はどんな物語を求めているのか」「自分はこれからどのような物語に身を置きたいのか」と問うような、物語を基礎とする視点で自らを見るとその見通しはだいぶクリアに像を結ぶような気がする。
人間はほの暗い「欲望」よって突き動かされて、自らが欲しいものもよく分からないままに求め続ける存在である。ととらえるよりも、人間は自らに埋め込まれた物語を求めそれを完成させて広めるために突き動かされている。ととらえる方が世界はより楽しく見えるような気がする。
それは利己的な遺伝子論がそれまでの生物観を一変させたように、今までの『不思議の国のアリス』的なカラフルで牧歌的な世界が、突如ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』的なくすんだサイバーパンクな世界に変容するほどの楽しさはあるかもしれない。