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2006年7月15日

我が世誰そ常ならむ

買い物があったので今日も四条に繰り出す。
自転車を駐輪場に預けて宵々山に浮かれる街を闊歩する。
途中「ニューバランスな某レディー」と邂逅す。
しばらく話して連絡先を交換する。いや、正確には「交換」はしていないか。
いずれにせよ、人が着飾っている様を見るのはなんとも良いものだ。
着飾る事自体だけでなく、着飾って行くべき場があるという事も、着飾って一緒に歩きたい人がいるという事もまた素晴らしい。


一人で自分のペースで歩くのはとても気分が良い。
そこには俺の前に立ちはだかって俺を押し止め、俺を後ろからつかんで引き留める何者もなく、後ろから俺を押し、前から俺を引っ張って俺を急かせる何者もない。
そこには協調すべき世界も他者もなく、世界と他者はただ自分に何かしらを与えるべき存在となり、条件付きながらも世界と他者は自分の意のままとなる。
しかし、隣に好きな人がいて、その人のペースにあわせて人の群れの中を歩く事が出来れば、どれだけ幸せだろうと思う。
以前は望めばいくらでも身近にあったはずの物が、気がつけば全く手の届かない所にある事に愕然とするも、それほど気分は悪くなかった。
何となく、俺は自分の「現状」を受け入れ、なにかしらの折り合いをつける事にしたようだ。
3+1次元のこの世界にある時間軸は一方向にしか流れない。過去を望むのは不合理であり、過去を実現するのは次元の崩壊でもある。
否応ながらも我々は時間軸に沿って「前」に進まされているわけで、
「過去」をひたすら求めて「現状」であり続けるつもりはないにしても、「現状」でなければどこでも良いというつもりは無い。
前に行くにしろ、後ろに下がるにしろ、少なくともそれは「現状」からの改善であるべきだし、もしその何かしらの変化が改悪となるなら、その「現状」がいくら悪いとしても「現状」であり続ける方がまだマシだ。
それでも、「現状」であり続ける事は今の「現状」の状態からすれば悪であるのは間違いない。
人間には、「思い」「行い」だけでなく「怠り」でも罪を犯すとされる見方もまたある。
夜、雷と雨が凄かった。
どこかに近くに落雷する度に低音の衝撃波が家を揺らし、強く稲光る度に窓から見える街灯が一瞬消える。
人間の一群を殺すのもこのエネルギーを持ってすれば雑作もないだろう。
電子の移動だけでこんなとてつもないエネルギーが放出されるのに驚きつつ、雷を神の御手になぞらえた昔の人の発想に納得する。
自然が作り出す雷のエネルギーは桁違いやけど、雷と同じく約90万メガワットの電力量を1/1000秒で実現するのも、現代の科学を持ってすれば不可能ではないだろう。
雷のエネルギーを感じるにつれ、これと同じ力を人間が持ちうる事に驚く。
自然が恐ろしい力を持っているのは当然の事であり今更驚く事ではないけれど、それに対峙しうる力を人間が持っている事実を感じるにつれ違和感を覚える。
人間たる自分の存在の弱く脆く醜くある様と、自然の力に匹敵する物を持ちうる人間たる存在の懐の広くある様のギャップに違和感を覚えざるを得ない。
しかし、その違和感はそのような力の由来となる自然法則たる摂理が凄いのであって、そのような力を抱く人間が凄いのではない。と考えれば解消される。
力を持つものが偉大なのではなく、力自体が偉大なのは考えれば当然の話ではある。
人間一個人は弱く脆く醜くある。
経験上から言えば、少なくとも俺の中にあるその弱さ脆さ醜さは決して解消されるものでも減じるものでもなかった。
一個人の人間が全体としてある程度の偉大さを体現するためには、自分が偉大に変化するのではなく、偉大なる何ものかを身にまとう以外にないと言う結論になるわけだ。
世界に秘められたる偉大な智恵は単体として存在し得ない。
それはそれを体現した人からしか見いだせず、その人を通してのみ現象する。
そして、そういった構造を担うものとして、人間存在の偉大さもまたそこに存在する。のか??

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