区切られた夏が終わった

やっと夏が終わり秋が来たような気がする。
この夏は本も読まずにひたすら遊びまくったが、それでも去年からうっすらと感じられた喪失感にも似たような変化がこの夏に決定な事実として現れたように思う。
「いつもは無い筈の何かがある」変化に比べて、「いつもはある筈の何かが無い」変化というのは気づきにくいけど物悲しく感じるものだ。

それは私の外で起こったコトであるけど、結果として私の中で現象したコトでもある。
全てが自分のコントロール外にあるのでいかんともしがたいところではあるけど、まぁ、大抵の変化というのは一方的に圧倒的に強要されるものでもある。

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例えば二十年前、十年前、当時は決して手に入れることはできないだろうと思われたものを持ち、決して到達できないだろうという地平に、今現在到達しているとする。
そして、そこから更に多くのものを望み、更なる高みを目指そうとするのは単なる貪欲に過ぎないのだろうか?傲慢でしかないのだろうか?

春の終わりに読み始めたR.D.レインの『自己と他者』『引き裂かれた自己』を秋になった今、やっと読み終わった。

治療者の課題は、それゆえ禅師のそれに似ていて、苦悩は、<解答>が得られないことに由来するのではなく、その種の解答の存在を信じたいという欲求そのものであり、かつそれがどうしても得られないというフラストレーションの状態である点を、指摘することである。

という箇所にハッとしてドスコイ。

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