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2014年10月23日

見えない事の意義

読んだ漫画とか本の話をしていて、最近読んだ漫画と本を4つあげてみるとこうなった。

押切蓮介『ハイスコア・ガール』、
真鍋昌平『闇金ウシジマくん』、
高屋奈月『フルーツバスケット』、
中村朕『羣青』

 

ハンナ・アーレント『全体主義の起源3』、
アルフレッド・アドラー『個人心理学講義』、
近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法2』、
中田考『イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで』
 

こうやって並べて見ると、ジャンルも傾向も全くバラバラに見えるけど、読みながら全ての本や漫画で問題とされていることは殆ど変わらないなと思う。
というよりもむしろ、それらの中で扱われている問題だ、と私が思っている問題それこそが、私の中で問題となっている問題でもあるのだ。

自分と同じ問題に苦しむ人が再び立ち上がる物語を読む事は、自分にとっての問題がどういうことかを理解し、そして何かしらの解決方法のひとつの例を具体的に学ぶことである。という本の読み方を殆どしなくなってずいぶん時間がたった。
そして、自分と同じ問題に苦しみ闘う人が他にもいると感じる事は勇気付け元気付られるものだ。という読み方もあまりしなくなった。

私が抱えているであろう問題を理解し、それを解決し、あるいは勇気付けられ、元気付けられる事を望むと言うことは、逆に言えば、人に対してそれが出来ると考えている事になる。
考えてみれば、誰か苦しんでいる人を本当に理解し解決し、また本当に勇気付けたり元気付けたり出来ると考える事そのものが傲慢である。
理解し、解決し、勇気付け、元気付けようと試みることと、実際にそれが出来る事はまったく別の次元の話だ。

最近は本や漫画で何を読んでも、実際の人話を聞いても、ただその語られる物語の中の問題の前に立ち尽くし、登場人物に寄り添うことしか出来ないと感じることが多い。

理解、解決、勇気、元気といったある種の形のあるものはなまじ形があるばかりに、出来るか出来ないか、認識されるかされないか、更に極端に言えばそれら存在するかしないかという’問題に突き詰められてしまう。
しかし、何かの前に立ち尽くし、誰かに寄り添う。と言う気持ちは実際に思っている人の中にしかないものであるから何かしらの形をとることができない。
何かの物語を読み、誰かの話を聞き、自分の中にそういった形をとらない何物かがあるのを感じることが出来れば、他の人の中にもそういった形をとらない何物かがあることを信じられるような気がする。

そして、自分の中にある何かしらの問題が語られた時、周りに何も見えなくても、どんな声も聞こえなくても、私に寄り添い、私と共に立ち尽くしてくれている人がどこかにいるだろうと信じることが出来るのは1つの救いであるような気がするな。

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