人の言葉は人そのものではない

情報公開とはすべからく情報操作の一面を持っている。何かを公開する事はそれを真であると宣言する事でもある。
自分で書いておきながら言うのもおかしいけど、私の書いている事が本当とは限らない。
例えば私がブログで「何かについてこうである」と書いたとしたら、他の人はそれが本当らしく見えれば「何かはこうである」と思うだろうし、本当らしく見えなかったとしても、少なくとも私は「何かはこうである」と考えている。と思うだろう。
しかし、可能性から言えば、私が全く出鱈目を書く事も出来るし、全く思っていない事を思ったとして書く事が出来る。
現実に何か起きた事について書かれていれば、それが本当かどうかは比較的簡単に分かるけど、私が思った事についてはその真偽を調べる事は事実上不可能であろう。
そのほかのあらゆるブログや日記サイトも同様であるとはもちろん言わないし、私は出鱈目も心に無い事も書きたいとは思わない。それでも少なくとも私の書く文章は、自己顕示欲と身の程、自己表現と情報操作、露出趣味と秘密主義の狭間を潜り抜けて生まれてくる。


このブログを読んで私がとても愚かしい人間に見えたら、それはそう見えるだけで、私はそれほど愚かではないと思う。
同様に、このブログを読む事で、もし私が立派な人間に見えたのなら、それはそう見えるだけの話で、私自身が立派な人間であるわけではない。
私の言葉は私ではないし、ある人の言葉がある人そのものでもない。これは私が私の言葉を聞く人に対して願う事であると同時に、私が人の言葉を聞く時の見方であり、私が私の言葉を見る時の見方でもある。
今まで「言葉」を信じてきていたけど、言葉で表現できる事はなんと少ないのだろうかと最近思う。言葉を全面的に信用するのはやっぱり間違いだろうと。
それでもやっぱり言葉は偉大やし、依然として信用できるものでもある。言葉にならないものに対して言葉で挑戦するのは、行為自体に崇高さがあると思う。
一般的な意味で、完全に信用に足るもので無くても、貴重で意義深く尊敬に足るものは愛の対象となりやすいのだろう。

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