適応と憐憫と恩寵

とても価値があるように思っていたものが気づくとそれほどでもなくなっていたり、また逆に今までなんとも思わなかったものがいつの間にやらとっても素晴らしく見えるようになっていたりすることは、人間生きていれば割とよくあることだ。
そんな我々に起こる内的な変化を人は成長とか老化とか、飽きたとか我に返ったとか目覚めたとか、その時その場合の立場や見方で色々な言葉で呼んでいる。
そんな変化は人間の中の精神的な部分で気まぐれに起こっている現象のようでいて、実は何かしらの危機的な環境の変化に晒された精神が、その環境に適応して生き残る為に選択した戦術の一つであるように最近思うのだ。

気付けば私も色々なものを好きになり、色々なものが割とどうでもよくなり、あれに熱中しこれに飽き、あれを志しそれを諦め、そんなことを繰り返しつつ生きてきたような気がする。
結局そんな変化が方向性として正しかったのか間違っていたのかはさっぱりわからないけど、それでも少なくとも生物としての生存戦略のレベルから見れば、現状で生き残っている状態は成功であるとは言えるように思う。

昔は旅行が嫌いだった私がこれだけ頻繁に旅に出るようになり、苦いとしか思えなかったビールをゴクゴク飲んでは「ふひー」っとため息をつくようになった一方で、夏になるとどうしても行かずにはおれなかった海もそんな情熱を持って迫ってくるものではなくなり、ここしばらくの生活のかなりの部分を占めていたゲームのようなものを起動することも殆どなくなってしまった。

今まで知らなかった美しさや素晴らしさが見えてきた時の喜びは単純に心地良いけど、以前は価値があったはずのものが今や全く色を失って見える事に気づいた瞬間というのは、過去のある時にはとても大きなものだった筈の美や真の一つを喪失した自分自身に対して、そしてまたそんな情熱を持って向けられる一つの目を失ってしまった対象に対して、ちょっとした憐憫の情のようなものを感じる。

かつては私の中にあったけれどどこかに消えてしまった「何か」に対する情熱や親愛やら友愛の情のようなものは、ただ私の中を通り過ぎたのではなく、特定の期間を生き抜くために一時的に与えられた恩寵のようなものなのかもしれない。などと思う春であった。

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2件のコメント

  • お読み頂き、共感頂き、またコメントまで頂きありがとうございました!
    最近は全然ブログ書いていませんが、また新しいエントリーを書いた折には来ていただければ幸いです。

  • 本当にそうですね
    興味のある物事に対してもそうですが
    恋愛とかも……

    去年夢中になっていた恋愛対象だった人間が、
    今振り返るとゴミみたいに感じていたり、
    またそんな自分は何だったのだろうか??と考えます。

    そしてそんな関係になった自分は、
    フランクルの本を昨年読んで深く感じ入った後では、
    一体人生から何を問われているのだろう?と考えています。

    仰る通り、こうして、1年前の私とはすっかり意識が変わってしまい、
    更に図太く生き抜いている事が
    答えの様な気がしています(笑)

    深く共感させられる日記有難うございました。

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