智のあり方

またしつこくジャンケレヴィッチの話だが…
先日『イロニーの精神』を読んで、その内容とは別にまたとても驚いたり感心したことがまだあった。
それは、彼の音楽から文学、絵画から哲学に至るまで様々な分野をまたがった多岐にわたる教養の深さだ。
それもただ知っていると言う知識レベルの話ではなく、自分を構成する1つのモノや経験というくらいの深度や密接さでだ。

いつでもネットに接続して調べものが出来る環境にいると、それが自分の外部記憶や共有知のように思えてきて、自分の知の一つである様に思えてくる。

そしてその状態にあると、聞かれた事には答えることは簡単に出来るようになっても、自分から何か問いを立ててそれを深めていったり、何かしら一つの智をひねり出す方向性にはあまり向かなくなるように思う。

昔から経験や体験至上主義の人は、本読んだり勉強で得た知識なんかはいざとなると全く役に立たんとよく言ったものだが、しかし、今となれば、本を読んだり何かについてひたすら考えるのは、何かについての知識や回答を得るのに、外部記憶としてのネット上の共有知を参照するのにくらべれば、圧倒的に経験や体験に近いのじゃないだろうかと思える。

まあ当たり前の事かもしれないけど、結局、時代によって「体験や経験の質」が変わっている。というだけの話なのかもしれないなどと思うのであった。

 

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